『菊池眞一研究室都々逸』というサイトの

『延慶本 平家物語 読み下し版(漢字ひらがな交じり)』

を使って調べてみた。

 

〔十五〕〔平家一谷に城郭を構ふる事〕
平家は幡摩国室山、備中国水嶋、両度の合戦に打ち勝ちて、山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等悉く従へ、軍兵十万余騎に及ペり。「木曽打たれぬ」と聞こえければ、平家、讃岐屋嶋をこぎ出でつつ、摂津国と幡摩との堺なる、難波一谷と云ふ所にぞ故籠りける。去る正月より、ここは究竟の城なりとて、城郭を構へて、先陣は生田の杜、湊河、▼P3076(三八ウ)福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石までつづき、海上には数千艘の舟を浮べて、浦々嶋々に充満したり。一谷は、口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人もすこしも通ふべき様なかりけり。誠にゆゆしき城也。赤旗其の数を知らず立て並べたりければ、春風に吹かれて天に飜り、火焔の立ちあがるが如し。誠におびたたし表も即しぬべくぞ見えける。

「摂津国と幡摩との堺なる、難波一谷と云ふ所」というところから、一の谷が摂津国と播磨国の境にあることがわかる。

※「難波一谷」については「一谷」の表記には「難波一谷」のほかに「一谷」「摂津国一谷」「摂津一谷」などがあることから表記の揺れと思われる。ひらがな版も同様になっている。

 

〔二十〕 〔源氏三草山并びに一谷追ひ落す事〕
 さる程に、源氏二手に構へて福原へ寄せむとしけるが、「四日は仏事を妨げむ事罪深かるべし。五日西ふたがる。六日悪日なり」とて、七日の卯時に東西の木戸口の矢合と定む。
 大手大将軍蒲冠者範頼は、四日京を立ち、摂津国幡摩路より一谷へ向かふ。相従ふ輩は、武田太郎信義、加々見太郎遠光、同次郎長清、一条次郎忠頼、▼P3089(四五オ)板垣三郎兼信、武田兵衛有義、伊沢五郎信光、侍大将軍には、梶原平三景時、嫡子源太景季、同平次景高、千葉介経胤、同太郎胤時、同小太郎成胤、相馬小次郎師経、同五郎胤道、同六郎胤頗、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、山田太郎重澄、山名小二郎義行、渋谷三郎重国、同馬允重助、佐貫四郎大夫弘綱、村上次郎判官基国、小野寺太郎道綱、庄太郎家長、庄四郎忠家、同五郎弘方、塩屋五郎是弘、勅旨川原権三郎有則、中村小三郎時経、川原太郎高直、同次郎盛直、秩父武者四郎行綱、久下二郎重光、小代八郎行平、海老名太郎、同三郎、同四郎、同五郎、中条藤次家長、安保二郎実光、品河二郎清経、▼P3090(四五ウ)曽我太郎助信、中村太郎等を始めとして五万六千余騎、六日酉剋に摂津生田森に付きにけり。
 搦手大将軍九郎義経は、同日京を出でて、三草山を越えて丹波路より向かふ。相従ふ輩は、安田三郎義定、田代冠者信綱、大内太郎惟義、斎院次官親能、佐原十郎義連、侍大将軍には、畠山庄司次郎重忠、弟長野三郎重清、従父兄弟稲毛三郎重成、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、山名三郎義範、同四郎重朝、同五郎行重、判三六郎成滑、和田小太郎義盛、天野次郎直常、糟屋藤太有季、川越太郎重頼、同小太郎重房、平山武者所季重、平佐古太郎為重、能谷次郎直実、子息小二郎直家、佐々木▼P3091(四六オ)四郎高綱、小川小次郎助義、大川戸太郎広行、諸岳兵衛重経、原三郎清益、金子十郎家忠、同余一家貞、猪俣小平六則綱、渡柳弥権太清忠、別府次郎義行、長井太郎義兼、源八広綱、椎名小次郎有胤、奥州佐藤三郎継倍、同四郎忠信、伊勢三郎能盛、多々良五郎義春、同六郎光義、片岡太郎経春、筒井次郎義行、葦名太郎清高、蓮間太郎忠俊、同五郎国長、岡部太郎忠澄、同三郎忠康、枝源三、能井太郎、武蔵房弁慶なんどを始めとして一万余騎、丹波路にかかりて、三草山の山口に、其日の戌時計りに馳せ付きたり。

「大手大将軍蒲冠者範頼は、四日京を立ち、摂津国幡摩路より一谷へ向かふ。」というところから、源範頼が摂津国の播磨路から一の谷へ向かったことがわかる。

 

「搦手大将軍九郎義経は、同日京を出でて、三草山を越えて丹波路より向かふ。」というところから、源義経が丹波路から向かったことがわかる。また「能谷次郎直実、子息小二郎直家」ということから、熊谷直実、直家親子が義経軍にいたことがわかる。

 

梅花を折りて頭にささねども、二月の雪、衣に落つ。月も高嶺に隠れぬ▼P3102(五一ウ)れば、山深くして道みえず。心計りははやれども、夢に道行く心地して、馬に任せて打つ程に、敵の城の後ろなる鵯越を上りにける。管六、東を指して申しけるは、「あれに見え候ふ所は大物の浜、難波浦、崑陽野、打出。あし屋の里と申すはあのあたりにて候ふ也。南は淡路嶋、西は明石浦、汀につづきて候ふ。火の見え候ふも、幡摩・摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候ふ間、一の谷と申し候ふなり。さがしくは見え候へども、小石まじりの白砂にて、御馬はよも損じ候はじ。一の檀こそ大事の所にて候へ。巌高くそびえ臥して、馬の足立つべしともみえ候はず。少しもふみはづして、まろび入り候ひなむ馬は、骨を摧かずと云ふ事候ふまじ。東西の木戸の上、東の岡をば壇の浦とて、海路遥に見渡して、眺望面白く候ふ。望海楼をうかべつべし。西の岡をば高松原とて、▼P3103(五二オ)春の塩風、秋の嵐の音、殊に冷まじき所にて候ふ也。大将軍、むねとの侍近く召して、各屋形を並べ作り、其の外の兵は東西の木戸口に二重に屋形を並べて候ふ也。弓矢取る身の習ひ、恥ぢがましく候ふ間、室山・水嶋の軍に度々命をすてて、合戦仕りて候へども、思ひ知り給はぬが口惜しく候へば、今日始めてはがね顕はし候はむずる」とぞ申しける。九郎義経は空もみえぬ深山の道を、いづくとも知らずあゆませつつ、峨々たる山を打ち出で、漫々たる海上を見渡して、渚々の篝火、海人の苫屋の藻塩火かと面白くぞ思はれける。

「敵の城の後ろなる鵯越を上りにける。」というところから、鵯越は一の谷の後ろにあることがわかる。

「幡摩・摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候ふ間、一の谷と申し候ふなり。」というところから、播磨と摂津の二カ国の境の第一の谷ということから一の谷と呼ばれたということがわかる。

 

「さて、鹿などの通ふ事は無きか」と御尋ね有り。「池の氷うち解けて、夕陽東にま▼P3105(五三オ)はり、のどけき春に成り候ひぬれば、舟波のみ山の鹿が幡摩の野山へ渡り、紅葉谷にちりしきて、こずゑあらはに成り候へば、こぐらき木の本を尋ね、幡摩の鹿が舟波へ通ふ時は此の山を越え候ふ」と申す。「さては鹿は通ふごさむなれ。鹿の通ふ程の道、馬の通はぬ事あるべからず。古き馬場にて有りけり。さて此の山を鵯越と云ふは、いかに」と御尋ね有り。翁申して云はく、「伝へ承り候ふは、天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されけるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給ふ。御使は大友の公家と云ひける人也。鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く。

「幡摩の鹿が舟波へ通ふ時は此の山を越え候ふ」というところから、播磨の鹿が丹波へ行くときにこの山(鵯越)を越えることがわかる。

 

また、「天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されけるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給ふ。御使は大友の公家と云ひける人也。鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く。」というところから、「鵯越」と名付けられた坂は「武庫山満願寺の峯」にあることになる。

 

満願寺の寺伝では「奈良時代に聖武天皇の勅願によって勝道上人が日本全国に『満願寺』を創建すること」になり、「そのうちの摂津国満願寺」とされている。

 

満願寺は天智天皇の時代ではなく、聖武天皇の時代に建立されたことになるが『平家物語』に描かれている時代には存在したことになる。

 

現在の満願寺は、兵庫県川西市満願寺町にあり、最寄り駅は阪急雲雀丘花屋敷駅になる。現在の位置は、武庫川より猪名川に近いので六甲山地から離れていることになり、そのまま解釈すると鵯越の由来としては意味不明になってしまうので注意が必要である。摂津国満願寺の子院(末寺)が武庫山にあり武庫山万願寺と呼ばれていた可能性があるが、満願寺の古文書を調べてみないとなんとも言えない。

 

そこで「満願寺」はとりあえず無視して、「天智天皇」と「摂津国ながえの西の宮」について調べてみることにした。

 

「摂津国ながえの西の宮」というのは、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)のことと考えられる。難波長柄豊碕宮は中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都したといわれている、らしい。

 

武庫郡教育会編の『武庫郡誌』(大正10年)の「武庫行宮址」によると、孝徳天皇は有馬温泉を訪れられたそうで、現在の兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)あたりに行宮(武庫行宮)を設けられたとの伝承がのこっているという。
 

宝塚市伊孑志(いそし)というのは、武庫山(六甲山)山麓武庫川右岸の地名である。

 

この地名をGoogleマップで検索すると武庫山(六甲山)山麓武庫川右岸だけでなく武庫山(六甲山)の住所も伊孑志(いそし)で、宝塚市伊孑志武庫山には武庫七寺の一つ塩尾寺(えんぺいじ)があり、塩尾寺のある武庫山は六甲山地(六甲連山)の東端といわれることがあるそうだ。

宝塚市伊孑志(いそし)左側の白い所が武庫山

 

孝徳天皇や天智天皇(中大兄皇子)の縁の地ということから考えると「武庫山満願寺の峯」というのは、現在の川西市満願寺町ではなく、宝塚市伊孑志武庫山の六甲山地の東端にある武庫山だと思われる。

 

又、当時見候へば、春の霞の深くして、み山のこぐらき時は、南山にすまふ鵯の北の山へ渡りて、栖をかけ、子をうみ、秋の霧はれて、こずゑあらはに成り候へば、おくも▼P3106(五三ウ)雪に畏れて、北なる鵯が南へわたる時は、此の山をこゆ。さて、鵯越とは申し候ふ。平家のおはする城の上から、十四五丁ぞ候ふらむ。五丈計りは落とすと云へども、其より下へは馬も人もよもかよひ候はじ。思し食し留まり給ひ候へ」と申して、かきけつやうにうせにけり。

「春の霞の深くして、み山のこぐらき時は、南山にすまふ鵯の北の山へ渡りて、栖をかけ、子をうみ、秋の霧はれて、こずゑあらはに成り候へば、おくも▼P3106(五三ウ)雪に畏れて、北なる鵯が南へわたる時は、此の山をこゆ。さて、鵯越とは申し候ふ。」というところから、春に南の山に住む鵯が北の山へ渡る時と秋に北に住む鵯が南の山へ渡る時に、この山を越えるということがわかる。

 

この鵯の渡りについては、以前このブログで現在も鵯の渡りが観察できると書いた。鵯の渡りについては神戸市の教員が鉄拐山の南側を鵯が渡ることを観察したことが神戸市のホームページで公開されている。

 

いざうれ小次郎、西方より幡磨路へおりて一谷の先せむ。

「そも渚へいづる道の案内を知らぬをば、いかがすべき。なまじひに出でば、出でぬ山に迷ひて、咲はれて恥ぢがましかるべし」と申しければ、小二郎申しけるは、「武蔵にて人の申し候ひしは、『山に迷はぬ事は安き事にて候ふなり。山沢を下にだにまかり候へば、いかさまにも人里へまかる』とこそ申し候ひしか。其の定に山沢を尋ねて、下らせ給へ」と申しければ、「さもありなむ」とて、山沢の有りけるを指南にて下りけるほどに、思の如くに幡磨路の渚に打ち出でて、七日の卯の剋計りに一谷の西の木戸口へ寄せてみれば、城郭の構へ様、誠におびたたし。

「西方より幡磨路へおりて一谷の先せむ。」「思の如くに幡磨路の渚に打ち出でて、七日の卯の剋計りに一谷の西の木戸口へ寄せ」というところから、寿永3年2月7日に西の方から播磨路へおりてその渚に出て、一谷の西の木戸を攻めたということになる。

 

小次郎は熊谷直実の息子の直家のことで、義経に従った熊谷親子が鵯越から逆落としではなく「山沢の有りけるを指南にて」(沢ずたいに)播磨路におりたということである。

 

九郎義経は、一谷の上、鉢伏、蟻の戸と云ふ所へ打ち上がりて見ければ、軍は盛りと見えたり。下を見下ろせば、或いは十丈計りの谷もあり、或いは二十丈計りの巌もあり、人も馬もすこしも通ふべき様なし。ここに別府小太郎すすみいでて申しけるは、「先度田代殿御一見の如くに、老馬が道を知るべきにて候ふ。其の故いかにと申し候ふに、伊予殿、八幡殿、奥の十三年の合戦の時、出羽の金沢の城にて七騎に打ち成され、すでに御自害候ふべかりけるに、駿川国の住人大相大夫光任、老いたりける馬を鉢伏のたうげから下す。此の馬、二十余丈の瀧を落として、迎ひの尾へ付く。其の時、七騎つづいてがけを下り、其の後に五万騎に成りて、貞任等を御追発の候ひける」▼P3124(六二ウ)とこそ承り候へ。かかる御計らひや有るべく候ふらむ」と申したりければ、「尤も然るべし」とて、老馬を御尋ねありけるに、武蔵房弁慶相構へたることなれば、二疋の馬を奉る。一疋は葦毛、一疋は鹿毛なり。鹿毛は奥の国の住人岡八郎が進らせたれば、「岡の嶋」と申す。是は三十一歳になりにける馬なり。いかけぢのくらに、きに返へしたる轡をはげたり〈これは平家のかさじるしなり〉。葦毛は石橋の合戦に打たれし、岡前の悪四郎能実が子に、さなだの与一能定が乗りたる馬也。よに入りていさめば、「ゆふがほ」と名付く。是は二十八歳なり。白鞍置きて、かがみ轡をはげたり〈此は源氏のかさじるしなり〉。二疋を源平両家のかさじるしとて、鵯越より落とす。

「九郎義経は、一谷の上、鉢伏、蟻の戸と云ふ所へ打ち上がりて見ければ、軍は盛りと見えたり。」というところから、義経が一の谷の状況を確認するために一の谷の上の「鉢伏」(鉢伏山と考えられる)に登ったあとに、老馬を二疋鵯越から落としたことがわかる。

 

「鉢伏」(鉢伏)は、六甲山地の西端にある鉢伏山と考えられる。

 

 

以上のことから、

 

鵯越の坂は六甲山地の東端の武庫山にあり、播磨の鹿が丹波へ渡るときに通り、鵯が春と秋に越える山であること、鵯越から播磨路へおりてその渚へ行けること、六甲山地の西端にある鉢伏山から一の谷の状況を確認してから鵯越から老馬を落とすことができること、これらを同時に満たすのが『平家物語』の延慶本がいう「鵯越」である。

 

ナゾナゾのようだが、神戸市民や宝塚市民なら、すぐわかるはずである。

 

六甲山地の西端の鉢伏山と六甲山地の東の武庫山を通ると聞けば、神戸市民や宝塚市民のほとんどが、

 

「なんや、六甲全山縦走路やん」ということだろう。

 

ちなみに六甲全山縦走路は公称56kmらしい( 神戸新聞によると47・611kmが正しいらしい。「六甲縦走「公称56キロ」は本当? 実測は47キロ」https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/machiaru/201707/0010893956.shtml)。

本坂越(姫街道)は60kmあるらしいから、長すぎることはないだろう。

 

『平家物語』延慶本の記述から「鵯越」の位置を特定すると、鵯越は六甲山沿いにあった播磨路(山陽道、西国街道)の間道のことを示していると考えるのが、普通の読み方といえそうだ。

 

その方が「越」の国語的意味とも一致する。

 

 

「越」について『広辞苑 第五版』で調べると、

ごえ【越え】_接尾_地名(国や峠の名など)に添えて、そこを越える、また、その道(すじ)の意を表す。「伊賀―」

となっているから、国語的意味では地名(国や峠の名など)+越で、鵯は鳥の種類じゃないかという人がいるかも知れないが「鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く」ということで、坂の名前(地名)を「鵯越」としたとすると「鵯越」という坂のある「越」で「鵯越越」になって、言いにくいから、「鵯越」となったと考えれば矛盾しない、だろう。

 

 

※ここで書いたことは『平家物語』の延慶本に関していえることで、他の資料とは無関係で、歴史学的な観点から鵯越の位置は一の谷でなければおかしいと主張しているのではありません。『平家物語』の延慶本を普通に読めば、鵯越は六甲山ぞいにあった播磨路の間道と読めるというだけのことです。

 

※『平家物語』(延慶本)にはまったく書いていないが、想像力をはたらかせると、神功皇后の伝説がある鉢伏山ー長田神社ー生田神社ー本住吉神社ー廣田神社ー甲山の関連カ所に烽火台(飛火と飛脚)などの情報通信施設があったのではないか。この情報通信施設が敵に落ちたり気象条件などで使えない場合の予備の施設として六甲山全山縦走路とに沿って鵯越があったのではないかなどと想像すると面白い。天智天皇は白村江の戦い以後、国土防衛のため水城や烽火・防人を設置したことで知られており、孝徳天皇も国土防衛のために城柵と柵戸を設けたことで知られている。六甲山全山縦走の中間地点で赤松円心の摩耶山城があったとされる摩耶山天上寺(忉利天上寺)は孝徳天皇の勅願寺といわれている。『平家物語』(延慶本)には平家や義経が古代の防衛システム(それを管理する身分の人々〔義経を案内し妙に鵯越の情報に詳しい一般人など〕含む)を利用して互いに戦ったということが暗示され伏線になっているように思えてくるから不思議だ。孝徳天皇や天智天皇の防衛政策を考慮すれば喜田貞吉大先生のように一の谷に城郭などあるはずがないと断定するにはかなり勇気がいる。城郭とまで行かなくても、湿式の壁さえ作らなければ刻んだ木材を運んで組むだけだから、高貴な人の舘はすぐ建てられたのではないだろうか。一の谷に安徳天皇が来られたかどうかはわからないが、平家が京都へ戻るつもりだったなら、一の谷に簡単な舘があっても不思議は無く、その舘の使用目的を行宮としたなら、内裏舘なり内裏屋敷なりの伝承が残っていても不思議は無い。