二の谷(現在の一ノ谷町3丁目)時代の武蔵少年(3~8歳?)は、

住友家別邸のあたりのところにあった幼稚園に通い、ついで当時は須磨寺の西南近くにあうた小学校に通った。

そうだ。

 

myトロッコで遊んだ武蔵少年は、

二町ばかりの暗キョをローソクをたよりに学友と通り抜けたのも一再ではない。始末の悪いゴンタだったの
である。

子グマに犬の首輪をつけ、鎖でひいて海岸につれ出して水泳や魚釣りの伴をさせた。変わった犬かと近づいてきた人がビックリ仰天して逃げるのを見て、頑童は悦にいっている。まったく人騒がせな話である。
 ロバもいたのでむやみにそこらあたりを乗り回したが、クマよりは知能が少々上とみえて、うるさくなると、わざと木のそばを通って振り落そうとする。

と、二の谷川の暗渠を探検したり、飼っていた子熊やロバでイタズラしたそうだ。

 

武蔵少年は、一の谷山荘(一ノ谷町2丁目)へ移ってからも、

生まれて間もないワニの子か父に贈られたので、一階南側の温室で水ソウに入れて飼うことになった。珍しくてたまらず、竹でつっついているうちに、つい勢がこうじてワニから血か吹き出た。あとでこわごわいくとワニは死んでいた。

空気銃を買ってもらって、うれしくてたまらず、むやみにスズメやヒワやヒヨを追い回した。

と、「始末の悪いゴンタ」ぶりだったという。

 

「こういうことは当然わが身に返ってくる」そうで、

あるときタマをこめておいたことを忘れて、銃口を手のひらに当てながら、ステッキのようにして一の谷をくだっているうちに、銃は暴発して手のひらから血が吹き出た。大騒ぎとなって神戸の医者に連れて行かれたが、大あばれにあばれるので医者はついにカブトをぬぎ切開した個所を再び縫い合わせてしまった。タマはいまでも右の人さし指と中指とがわかれるあたりの肉のうちにとどまっている。

という。

 

この時、武蔵少年を神戸の医者に運んでくれた爺やに木の上から小便をかけたりもしたそうだから、ほんとうに「始末の悪いゴンタ」だったようだ。

 

この武蔵少年が、大人になると和辻哲郎の後任で東京大学倫理学科教授になるのだから、驚きだ。

 

和辻哲郎は、『すべての芽を培え』で「すべてを生かせよ、一切の芽を培え」というモットーを示して、

 私は誤解をふせぐために繰り返して言います。この「教養」とはさまざまの精神的の芽を培養することです。ただ学問の意味ではありません。いかに多く知識を取り入れても、それが心の問題とぴったり合っているのでなくては、自己を培うことにはなりません。私はただ血肉に食い入る体験をさしているのです。これはやがて人格の教養になります。そうして、その人が「真にあるはずの所へ」その人を連れて行きます。その人の生活のテエマをハッキリと現われさせ、その生活全体を一つの交響楽に仕上げて行きます。すべての開展や向上が、それから可能になって来るのです。

 この「教養」は青春の歓楽を味わいつくす態度や、厳粛に自己を鞭うって行こうとする態度と必ずしも相容れないものではありません。人それぞれにその素質に従って、いずれの態度をとる事もできるでしょう。しかしいずれの態度をとるにしても、「教養」は人を堕落から救います。そうして人をその真の自己へ導いてゆきます。

と、教養について述べている。

 

武蔵少年は「始末の悪いゴンタ」だったが、すべてを生かし、一切の芽を培って、上手い具合に真の自己へ導いていかれたということなのだろうか?

 

金子武蔵先生は、少年時代を振り返って「始末の悪いゴンタ」だったと、反省しているのだから、ま、そういうことになるのだろう。

 

 

和辻哲郎の「すべてを生かせよ、一切の芽を培え」というモットーにちなんで、子供に芽生(めい)と名付ける親がいるらしいが、和辻哲郎を読んだことのない人たちからは、キラキラネームを付けたと馬鹿にされるらしい。

 

ちなみに、島崎藤村のファンは芽生を普通に「めばえ」と読ませるらしい。