田中貢太郎の『天狗の面』

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1080222

に「京都大学の祟地蔵」という怪談がある。

 

この「京都大学の祟地蔵」によると、

 

京都大学には、

 

理学部構内にある祟り地蔵と医学部構内にある祟り地蔵の

 

二つの祟り地蔵がある。

 

この二つの祟り地蔵の位置を調べてみた。

 

 

「京都大学の祟地蔵」にある京大理学部構内にある祟り地蔵の話(田中貢太郎『天狗の面』より)

大正八年京都大学では、動植物学の教室を建設するために、百万遍知恩院の東方白川街道に沿うた土地を購入して、地均工事をやつたところで、地の中から石地蔵が数多出て来た。地均に従事していた土方たちは、

「石地蔵では、石垣にもならず、漬物の押しにしては、勿体ない、こないな物は、捨場にも困る」

と云つて構内の隅へ投げだし、やがて其の石地蔵に腰をかけて、暢気さうに午の弁当を啖ふ者もあれば、

「石地蔵やないか、こないな物が、何で勿体ない」

と云ひながら容赦なく小便をしかける者もあつて、嘗は地蔵菩薩として尊崇の的となつてゐた事もあつたと思はれる石地蔵も、土方たちの前には何の威光もなかつた。所で、土方たちが石地蔵を陵辱し初めてから間もなく、工事請負人の小島某が容体の判らない急病でころりと死んでしまつた。すると何人云ふとなく、それは石地蔵の祟だと云ひだしたが、大学の方では、

「石地蔵が祟る、そんな馬鹿なことがあるものか」

と云つて一笑に附した。

其のうちに工事はどんどん進捗して、木造ではあるが堂々たる洋館が出来あがつた。其の時になつて、其の建築にたづさはつてゐた大工の棟梁の服部と云ふのが死んだ。続いて土方の某が死に、それから大学の建築部長山本治兵衛が死んだ。会計課長の今井と云ふのは、其の時樺太へ出張してゐ

て樺太で死んだ。

「それ見い、こんなに此の建築に関係した人が死ぬのには、みんな地蔵さんの祟だよ」

と云つて、工事人足、出入商人、小使いたちは、寄ると触ると其の噂で持ちきつた。

変な信仰を持つてゐた出入商人の一人は、紀伊郡櫓大路村の稲荷下げの婆さんの家へ駆けつけた。八十あまりになる稲荷下げの婆さんは神祓いの後で、

「地蔵の祟ぢや、石地蔵と云つてもあれは元来大日如来ぢや、大学ではお祭りをしないばかりか抛りだして尿をしかけたりするから、如来さんが大変な御立腹で、まだ六人まで命を奪ると云うてござる。一日も早くお祭して、特に水は毎日お供へせんとなりませんぞ、それに古狸がまだ二疋をる、それは一疋は義春、一疋は三九郎と云ふから、これもよくお祭りをせぬと怒つとる」

と云つた。出入商人は飛んで帰つた。さ大変だ。まだ六人の命を奪る。命を奪られるのは何人も厭だ。命を奪られるのが厭なら大日如来を祭らなければならぬ。そこで動植物学教室の建設に主力を尽くしてゐた池田教授に、相談を持ちかけたところで、同教授は鼻端で笑つて、

「ほう、さうか、それやえらいこつちやが、まさか大学では、ね、君たちで然るべくやつたらどうだ」

と対手にならなかつた。ところが其の池田教授は、僅に四五日の病気で大学病院で死んでしまつた。かうなると迷信だと笑つてゐられなくなつた。そこで小川、川村、郡場、小泉の諸教授が若干寄附し、出入商人も醵金して、二百余円で構内の東南に二坪程の台場を築き、それに石地蔵を並べ、狸の祠も作つて花を飾り、餅や赤飯を供へて、厳に祭典を執行し、続いて毎年盆の二十八日に、例祭を行ふことになつたので、その後は何の事もなくなつた。

 

今出川通から見た京大理学部構内にある祟り地蔵

むかしは理学部の事務員が地蔵盆の設営をしていたそうだ。

 

 

「京都大学の祟地蔵」にある京大医学部構内にある祟り地蔵の話(田中貢太郎『天狗の面』より)

京大医科が設けられて間もない比の話であるが、まだ其の頃、吉田町は畑地で、百姓が野菜物を作つてゐた。その吉田町の百姓の一人が、某日医科の構内を覗いてみると、空地の上へ石地蔵を台もろともに放り出してあるので、いらないものならもらはうかと、人を頼んで家へ運び、石屋に交渉して、それに穴を鑿らして手洗鉢にし、それを便所の口へ据ゑた。

其のうちに十年近くの歳月が流れたが、其の百姓の家は皆死絶えてしまつた。そこで、親類縁者が集まつていろいろ評議した。其の時、

「彼の地蔵さんを、手洗鉢にしたんやで、一家がかうして死ぬるんやろ、恐ろしいことや、はよ返さんとあかん」

と云ふものがあつて、石地蔵を医科大学の構内へ運び返した。

医科大学の方では、そのままにして放つて置いたところで、何人云ふとなく、石地蔵の附近の草を刈ると祟がある。掃除夫の何人は病気した。何人は負傷した。といろいろな風説が生まれて来た。時の学長伊藤隼之博士は、石地蔵の附近に草が生え繁つて見苦しいので草刈を命じた。掃除夫は困つて祟地蔵の由来を話した。伊藤博士はせせら笑つて、

「馬鹿なことを云ふな、此処を何処だと思ふ、最高の学府だぞ、大丈夫だ、乃公が保証するから刈つちまへ」

草刈を云ひつかつた掃除夫は、石地蔵を三拝九拝して、

「云ひつけられて、しかたなしにやる事だから、耐へておくれやす」

と云つて草刈にかかつたが、其のためか掃除夫には何の事もなかつたが、伊藤博士の夫人が俄に病気になつて死んでしまつた。

「それみい、伊藤先生が無理に掃除をさしたからだよ」

かうした噂がぱつと校内に広つたが、それもやがて消えて学校の方で草原へ石地蔵を捨て置いては困ると云ひだした。小使たちは鬼魅が悪いので、石地蔵にお詫びしてか槻の古木の根元へ持つて往つたが、槻は何時の間にか其の石地蔵を抱きかかへて、その半ばを巻込んでしまつた。其の一方、槻の枝の一つが医科の事務室の軒端を覆うて室を暗くした。事務室ではその枝を伐りりたいが、伐れば地蔵が祟ると思ふので、何人も伐る者がない。学部長初め事務員たちは額を集めて相談の結果、出入の植木屋の山本と云ふのに頼んだ。頼まれて山本は否とは云へなかつた。

「それでは私が、命を的にして、切りませう」

山本は七日の間、若王子の瀧で水垢離を執つて、それで念仏を唱へながら邪魔になる枝を伐り払つたが、何の事もなかつた。これは大正十二年の出来事であつた。

 


上空から見た京大医学部構内にある祟り地蔵(写真中央 油掛地蔵・神木)