あのときに考えたこと-脳梗塞発症の前後(6)

   三森至樹

 病院には何人か見舞いに来た。まず、教会の小宮さん。彼は、前にも書いたとおり聖書を差し入れてくれた。それ以外にも何回かやってきて、いろいろ話をした。食べ物を差し入れようとした時もあったが、病院では出される食事以外は食べてはいけないことになっているので、それは持って帰ってもらった。
 それから塾の当時の室長。わたしが担当している生徒がわたしを待っていることを教えてくれた。
 わたしの姉はもちろんたびたび来た。あるときは夫と息子も連れてやってきた。彼女はわたしのためにいろいろやってくれた。
 まず、わたしの入院している川崎市が、彼女が住んでいるあきる野市からあまりにも遠くて、わたしの世話をするのに不便だと言うので、あきる野市に近いところに転院するようにといろいろ探してくれた。結局、昭島市の竹口病院というところを見つけて、そこにわたしを移そうということになった。昭島市は青梅線沿線で、あきる野市よりはわたしの職場にも通いやすいだろうということもあったらしい。
 そればかりでなく、姉は、わたしの住んでいたアパートの大家との解約の手続きとか、わたしの荷物の処分、まだ必要と思われる品物の保管のために貸し倉庫を用意するなど、わたしができないことを一切引き受けてくれた。ちなみに、わたしが住んでいたアパートには、病院に担ぎ込まれたその日以来もう二度と行くことはなかった。つまりわたしは、そこでの生活からいきなり切断されてしまったのだ。わたしは新しい生活をもう一度一から始めなければならなくなった。

 昭島市の病院に転院することになったのは、12月の初めだった。だから、川崎市の帝京大学病院には、9月の終わりから12月の初めまで、2か月余り入院していたことになる。
 転院するその日、退院の手続きを済ませ、服も姉が用意してくれた自前の服に着替えた。そして、姉とともに車椅子に乗ったまま病院の人たちに挨拶をした。病棟のスタッフたち、看護師もリハビリを助けてくれた療法士たちも、医者も全員集まって、エレベーターの前まで見送ってくれた。
 一階に降りると用意された介護タクシーに乗り込んだ。介護タクシーは料金は高いのだが、車椅子に乗ったまま移動できる。わたしは姉と一緒にタクシーに乗って出発した。
 タクシーは最初の内見慣れた道と風景の中を進んでいった。しかし、やがて見知らぬ道を進むようになり、わたしは自分がどこを進んでいるのか分からなくなった。姉は運転手といろいろ雑談をしていた。やがてタクシーはある病院の敷地内に入り、そこで止まった。そこが新しい転院先の、昭島市竹口病院だった。そこでまたしばらく療養することになる。

 ちなみに、わたしが入院していた帝京大学病院だが、その建物は今はもうない。新しい病院の建物が近くにできて、そこにすべてがすっかり移った。わたしが入院していた当時でさえ、ずいぶん老朽化していたので、それは当然だろう。その古い建物は調べてみるとできたのが1970年ということだ。老朽化するはずだ。その病院はいろいろ建て増しがされて行って、内部はまるで迷宮のようになっているところもあった。建て替えが必要なのははっきりしていた。新しい病院は、しかしすぐ近くに再建された。田園都市線高津駅の近く、線路を挟んだすぐ反対側だ。線路の西側は古い建物で、東側に新しい建物ができたのだ。できたのは2017年。わたしが入院していたのは2012年だから、新しい建物ができたのはその5年後だ。古い建物はすべて取り壊されて、今は駐車場になっている。
 そういうわけで、わたしが入院していたあの病院は今はない。あの建物と、わたしが暮らしていたあの場所は、今はもうわたしの記憶の中だけに存在している、いわばまぼろしの風景になってしまった。