窓の外の木・冬
三森至樹
冬となり窓の外の景色が寒々しくなった。
遠くの公園に立つ二本の大きな欅の木も、すっかり葉を落ち尽くして、裸の枝々を空に向かって広げている。
周りの桜の木も、春の花の満開のときと打って変わって、すっかりごつごつした、無骨な姿をさらして立っている。
それら彩りのない寒々した木々が、曇り空の下、寒風の中に立っている。
わたしの部屋の窓の外、すぐ近くに立っている木も、今は無数の細い枝を、空に向かって伸ばしている。
その姿はちょっと見には寒々しくはある。
しかしわたしはその姿を違ったふうに見ている。
この木は二、三年前に、大きな剪定を受けて、幹と太い枝ばかりになっていたことがある。
わたしはそれを痛々しく思って眺めていた。
しかし、あるとき気づくと、その切られた枝々から、小さな薄黄色い双葉がたくさん顔をのぞかせていた。ああ、この木はまだちゃんと生きているのだと思った。
それから時が過ぎ、やがてこの木は、少し細くはあるが長い枝をたくさんに生やして、夏、葉がさかんに茂るころになると、見た目には切られる前の元の姿を取り戻したように見えた。
しかし、冬になって葉が落ちて、その今の姿がむき出しに露わになってみると、この木がいったんは無残な姿になったところから、営々と自らの伸びる生命力を発揮して、今の姿にまで回復してきたことが分かる。
だから、わたしにとって、この木は寒々しいどころか、不遇な時にもめげることのない、生命の伸びる力を体現しているように見えるのだ。
わたしも十年ほど前に大きな病を患い、それ以来以前とは違う不自由な体になった。だからわたしには、この木は大きな教訓を与えてくれているように思える。
この木が言うのは、まだ、諦めたり、不運をかこつ必要はない。生きる者にはだれにも、内に不屈の伸びる生命力がまだ宿っているのだ。少しの希望を少しずつ絶えず見出し続けていけば、伸びる命の力は失われることはないのだと。
しかしわたしはまた思うのだ。
そうかもしれない。しかし、無理する必要もない。
この木がそうであったように、内からの自然の促しによって、この木はこういう姿になったのだ。
わたしも内なる促しに任せて、そのままに生きていこう。
もしかしたらこの木のようにさらに成長するかもしれないが。
自然の促しは別の姿にいざなうのかもしれないではないか。
無理することはない。自然の流れに任せることだ。
冬、窓の外を眺めながら考えたこと。