因果は巡る
三森至樹
昔、と言っても80年ほど前のことだが、当時のナチスによって迫害され、虐殺されたユダヤ人たちが、今は逆に周りの人たちを虐殺している。いろいろな言い分はあるのかもしれないが、何とも皮肉なことに見える。それは、例えば親に虐待されていた人が、後年人の親となったときに、その子供を虐待するようになるのと、規模は違うが似ているかもしれない。因果は巡るというわけだ。
世界では心痛むような出来事がいろいろ起こっている。思うに、世界は業の塊、阿頼耶識なのだ。
業というのは、世界で起こる全ての出来事、例えば物理的現象から、人間の行いや思い、感情に至るまで、全ての出来事を引き起こすもとになっている潜勢的な力であって、それらはある特定の方向を持った力、つまりベクトル的な力でもある。そしてそれらの業は、互いに密接に関係しあっていて、一つの全体的でダイナミックな組織をなしている。この業同士の関係、そのつながりを因縁果と言い、この全体を阿頼耶識という。
そしてこの阿頼耶識の活動によって、世界にいろいろな出来事が起こり、その現実化した出来事の記憶がまた、阿頼耶識の中に新たな業の種として吸収され、保存される。その新しく変容した阿頼耶識が、また新たな出来事を引き起こす。
こういうわけで、この世界の出来事は多かれ少なかれ、阿頼耶識に蓄えられた業の種を組織する因縁果の現れとして、互いにつながりあっている。そのように見る必要があるだろう。つまり、出来事の直接的な因果関係だけではなく、もっと広い範囲に広がる因縁的なつながりも感じる必要があるということだ。誰でもときどきそんなふうに見て、因果の巡りあわせを感じることがあるのだろう。
みんなが懸命に良くなろうとして努力しているにもかかわらず、世界はなぜこんなに暗いのか。ときどきそんなふうに立ち止まって考え込む人も多いだろう。それに応える仮説として、阿頼耶識のことが考えられるだろう。
因縁果によって結び付けられ、組織化されている阿頼耶識の発動によって、業は流動し、世界は変わっていく。しかし、その仕組みの根本は変わらない。つまり世界は迷いの業の集積であり、迷いの堂々巡りの中に閉じ込められているということだ。
その堂々巡りを破るような出来事も起こらないし、人間の善悪の判断に基づく行いの努力によっても、因縁果の堂々巡りは破れない。なぜなら、全ての現象、出来事はおろか、人間の判断や意志でさえ、完全に業の流動に制約されているからだ。業の流動以外のことは世界には起こらない。つまり、阿頼耶識の働きが世界そのものであり、世界はその中に閉じ込められているからだ。
唯一その可能性があるとすれば、因果の堂々巡りに気づき、その事実に打ちのめされるということだろう。ある仏教学者が言っていたように、騙されていることに気づけば、その人はもう騙されていないわけだし、夢だったと気づけばその人はもう夢から覚めているのと同じように、迷いに気づけばその人はもう迷っていないというわけだ。しかし、その覚醒の変革は、そう容易なことではないのかもしれない。