麻生の月読神社
三森至樹
今から十年ほど前まで川崎市に住んでいた。そのころ私は、昼間はポスティング(チラシ配り)をやり、夜は塾で教えていた。ポスティングに行くのはほとんど川崎市内だった。
ある時麻生区の柿生というところに行き、その近辺でポスティングをした。
柿生というところは川崎市の南の外れで、小田急線の駅で言うと、柿生の次は鶴川になる。鶴川はもう東京都になり、私が担当するポスティングのテリトリーではなくなる。つまりそのとき私は、自分の担当する地域の一番南を歩き回ったことになる。もちろんそこを歩くのは初めてだった。
柿生駅の東側は上麻生・下麻生という地域になる。駅を少し外れると、閑静なというよりひなびた感じの住宅街となる。住宅地図を見ながら順番にポスティングしていて気づくと、少し標高の高いところを歩いていた。住宅街でしかも家もまばらなそこは、チラシ配りとしては効率が良くない。しかし住宅地図を見ていると、少し離れたところに神社があることに気づいた。名前は月読(つくよみ)神社と記されていた。へえ、変わった名前の神社だなと思い、興味がわいたので、ポスティングは少し中断してそこに行ってみることにした。
神社に向かって細い道を歩いて行くと、林の間から下を見渡せた。つまりそこはこの近辺では一番標高の高い丘となっているのだ。やがて道は突き当りとなり、その先に神社があった。神社に通じる鳥居は見なかったと思う。おそらく境内に通じる横の道から入ったのだと思う。そんな大きくはない中くらいの神社だった。
それにしても、月読神社というのは珍しい。神社に祀られているのは、たいてい天照大神とか、八幡とか、諏訪とか有名な神が多い。それに比べると月読尊を祀る月読神社というのは圧倒的に少ない。
そもそも月読尊というのは、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がみそぎをしたときに、伊弉諾の体から生まれた三柱の神のひとつだ。つまり天照大神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、月読尊の三人だ。天照大神は言うまでもなく、日本の神々の中の中心の神であって、神々の中の最高位の神だ。伊勢神宮をはじめとして、日本の神社の中でこの神を祀っていないものの方が少ないかもしれない。素戔嗚尊は、天照の弟だが、気性が激しく乱暴者で、高天原で乱暴の限りを尽くして追放されてしまう。しかし彼はのちに出雲に下って、出雲の国の創始者となった。これも大いに尊崇され、祀る神社も多い。この二人に比べると、月読尊は影が薄く、彼にまつわる神話も少ない。そういうわけで、月読尊を祀る神社は少なく、彼を主神とする神社は珍しいというわけだ。
この神社に寄り道した後は、予定通り割り当てられた地区のチラシ配りを終え、大きな道路を通って柿生駅に戻った。この道路は割と大きくて、スーパーマーケットや幼稚園などもあり、多少賑わいもあるようだった。もちろん柿生駅周辺は店も立ち並んでいて、通りには人が行きかっていた。
この柿生駅には、そのとき初めて入ったわけでもないことを、後で思い出した。駅の東側の上麻生、下麻生にはそのとき初めて行ったのだが、西側の片平というところには、ポスティングを始める前、1994年ごろに行ったことがあった。そのことを思い出したのだ。
そのころ郷土史研究みたいなことに興味があって、川崎市の歴史に関する本をいくつか読んだことがあった。その中の一つに、江戸時代の川崎の村についての文章があり、具体例として麻生の片平村について書かれていた。そこで実際にその片平村を見てみたいと思い、行ってみた。もちろんもう今は江戸時代ではないから、片平という土地はあったが、村はなかった。そこは東京近郊の新興住宅地で、土地開発が進行中のところも目に付いた。いささかがっかりしたが、それでも江戸時代以来存在していただろうものも見つけることができた。例えば、修広寺という禅寺や、道端の道祖神やには、江戸時代の名残りも感じられた。
さて、月読神社のことだが。
この神社は江戸時代以来上麻生・下麻生村の鎮守として尊崇されていたとのこと。また、この神社は、麻生村を治めていた小島佐渡守という人物によって、天文3年(1534)年に創建されたとのことだ。時代的に見て、この小島佐渡守は小田原を本拠とする後北条の家臣だったと思われる。
それ以前、月読神社が今立っているところは、亀井城という山城だっらしい。どうりで月読神社は、山城にふさわしいような小高い丘の上に立っているわけだ。この亀井城というのは、源義経の家来だった亀井六郎が立てたという伝説がある。しかし実際は、平安時代以来この土地を支配していた豪族が依った古い城らしい。そしてこの城に付属していた館があって、その豪族が住んだ場所は、今の麻生不動尊らしい。確かに、月読神社とこの麻生不動尊とは200メートルとは離れていない。そしてこの場所は、地形的に見てその当時の要衝、重要拠点となりえたところだと言える。
亀井六郎のことは伝説ということだが、しかし、この近くには義経の名前を冠する古い神社もあり、この地が義経とその家来たちと何らか関係があったのかもしれない。
その後戦国時代になってからは、亀井城は後北条氏の家臣小島佐渡守が領するところとなり、改修の後しばらくそこに住んだらしい。しかし、佐渡守は近くのさらに便利の良いところに新しい城を造ったため、この亀井城は廃城となり、その跡地に新しく月読神社を、伊勢神宮から勧請して、伊勢の分社として土地の守り神としたものらしい。そのさいなぜ月読神社を選んだのかはよく分からない。しかしそのおかげで、全国的にも珍しい月読神社がこの地にできたわけだ。
上麻生・下麻生の平地からはどこからも見上げられる小高い丘の上に月読神社は立っている。たまたま興味がわいて、そこに行ってみたわけだが、今私の記憶にある月読神社の姿は、ネットで紹介されている月読神社の写真とは、若干違っている。写真では、鳥居を通って見える神社拝殿の正面が収められているが、わたしの記憶では、違う方向から入ったためか拝殿は横を向いている。そういうことかもしないし、わたしの記憶の中で時間とともにその姿が変わってきたのかもしれない。記憶は写真ではなく、心の中で変わっていくものらしいから。