自然の美しさについて(1)
たいていの人は、満開の桜とか、紅葉した森とかを見ると、「ああ、きれいだな」と感じ、しばらくその前に立ち止まったりするだろう。
しかしそれ以上に、激しくその美しさに打たれる場合もある。そんなふうに、自然の美しさを強く感じるというのは、いったいどんな時なのだろうか。またなぜ、そんなふうに自然の美しさに感動させられるのだろうか。そのことについて考えてみたい。
芥川龍之介は、自殺する直前に、一人の友人にあてて手記を書いていた。その「或旧友へ送る手記」の中の一節で、彼はこんなふうに書いていた。「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」(或旧友へ送る手記)
つまり彼は、自分の間近な死を予感しながら、その死にゆく者の眼で、自然を美しいと感じていたのだ。死に近づいていく者にとって、自然は際立って激しく美しいと感じられるということなのだろう。それはなぜだろう。
そのことについてもう一つ、例を上げて考えてみよう。
堀辰雄は、芥川龍之介の後輩で、親しく交際していた作家だが、彼に「風立ちぬ」という作品がある。この作品は、主人公の「わたし」と、肺を患った婚約者「節子」とが、軽井沢のサナトリウムに行き、そこで二人だけの療養生活を送ることになる、そこでの出来事をつづった小説だ。その中の一節で二人は、初夏のある夕暮れ、陽が落ちていく自然の風景を眺めながら、その美しさに非常な幸福感を感じる。そのとき節子は、自分の感じたことを、ためらいながらもこのように「わたし」に告げる。「…あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは、死んで行こうとする者の眼にだけだと仰ったことがあるでしょう。…私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」と。
この節子のセリフは、おそらく、自分の師匠の芥川が遺した「或旧友に送る手記」の中の言葉を、たぶん意識的に引用したもののように思われる。
両者に共通しているのは、死を前にした者の眼に、自然はその本当の、深い美しさを露わにするという考えだろう。
このことについて考えてみると、自然はもともとそのような美しさを持っているのだが、生きることの必要にかまけて、自然にじっくりと向き合う余裕のない生活人には、その美しさが見えてこない。しかし、死を覚悟したものにとっては、生活していくための関心が抜け落ちてしまう、そうすると、そのような人に対しては、自然は本来の美しさをもって感じられるようになる、ということではないかと思う。
ということは、自然の美しさを感じることのできる人間というのは、死に近いことを意識しているために、生きることへの関心から解き放たれた人間ということになる。つまり、自然の美しさと生活人とは相容れないということなのだろう。
しかし、自然の美しさを鋭く感ずるのは、死に近い人間ばかりだろうか。
例えば、イエスは、福音書に伝えられている彼の言葉から、彼が自然の美しさを鋭く感じていたらしいことがうかがえる。山上の説教の中で、彼はこのように言っている。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章28-30節)
このように野の花を、この世で最も美しいものとして挙げたイエスは、はたして、死に近いものの末期の眼で、野の花の美しさに陶酔していただろうか。そんなことではない。それははっきりしている。イエスは、野の花の美しさの中に、この世界の小さいものにさえ、その愛と配慮を行き届かせている神の慈愛深さを見出していたのだ。彼は、野の花の美しさの中に、神の栄光と、慈愛深さを感じていた。彼にとって、この世界の自然の美しさ、その輝きは、神の栄光を具体的に示すものにほかならなかった。
では、末期の目に映る自然の美しさと、神への信仰によって見出される美しさは、どういう点で共通し、どこが違うだろうか。(続く)
たいていの人は、満開の桜とか、紅葉した森とかを見ると、「ああ、きれいだな」と感じ、しばらくその前に立ち止まったりするだろう。
しかしそれ以上に、激しくその美しさに打たれる場合もある。そんなふうに、自然の美しさを強く感じるというのは、いったいどんな時なのだろうか。またなぜ、そんなふうに自然の美しさに感動させられるのだろうか。そのことについて考えてみたい。
芥川龍之介は、自殺する直前に、一人の友人にあてて手記を書いていた。その「或旧友へ送る手記」の中の一節で、彼はこんなふうに書いていた。「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである」(或旧友へ送る手記)
つまり彼は、自分の間近な死を予感しながら、その死にゆく者の眼で、自然を美しいと感じていたのだ。死に近づいていく者にとって、自然は際立って激しく美しいと感じられるということなのだろう。それはなぜだろう。
そのことについてもう一つ、例を上げて考えてみよう。
堀辰雄は、芥川龍之介の後輩で、親しく交際していた作家だが、彼に「風立ちぬ」という作品がある。この作品は、主人公の「わたし」と、肺を患った婚約者「節子」とが、軽井沢のサナトリウムに行き、そこで二人だけの療養生活を送ることになる、そこでの出来事をつづった小説だ。その中の一節で二人は、初夏のある夕暮れ、陽が落ちていく自然の風景を眺めながら、その美しさに非常な幸福感を感じる。そのとき節子は、自分の感じたことを、ためらいながらもこのように「わたし」に告げる。「…あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは、死んで行こうとする者の眼にだけだと仰ったことがあるでしょう。…私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」と。
この節子のセリフは、おそらく、自分の師匠の芥川が遺した「或旧友に送る手記」の中の言葉を、たぶん意識的に引用したもののように思われる。
両者に共通しているのは、死を前にした者の眼に、自然はその本当の、深い美しさを露わにするという考えだろう。
このことについて考えてみると、自然はもともとそのような美しさを持っているのだが、生きることの必要にかまけて、自然にじっくりと向き合う余裕のない生活人には、その美しさが見えてこない。しかし、死を覚悟したものにとっては、生活していくための関心が抜け落ちてしまう、そうすると、そのような人に対しては、自然は本来の美しさをもって感じられるようになる、ということではないかと思う。
ということは、自然の美しさを感じることのできる人間というのは、死に近いことを意識しているために、生きることへの関心から解き放たれた人間ということになる。つまり、自然の美しさと生活人とは相容れないということなのだろう。
しかし、自然の美しさを鋭く感ずるのは、死に近い人間ばかりだろうか。
例えば、イエスは、福音書に伝えられている彼の言葉から、彼が自然の美しさを鋭く感じていたらしいことがうかがえる。山上の説教の中で、彼はこのように言っている。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(マタイによる福音書6章28-30節)
このように野の花を、この世で最も美しいものとして挙げたイエスは、はたして、死に近いものの末期の眼で、野の花の美しさに陶酔していただろうか。そんなことではない。それははっきりしている。イエスは、野の花の美しさの中に、この世界の小さいものにさえ、その愛と配慮を行き届かせている神の慈愛深さを見出していたのだ。彼は、野の花の美しさの中に、神の栄光と、慈愛深さを感じていた。彼にとって、この世界の自然の美しさ、その輝きは、神の栄光を具体的に示すものにほかならなかった。
では、末期の目に映る自然の美しさと、神への信仰によって見出される美しさは、どういう点で共通し、どこが違うだろうか。(続く)