続・文学とキリスト教(二十二) 堀辰雄の「風立ちぬ」(三)

 「歴史は繰り返す」ということはよく言われる。それが本当か嘘かは、いろいろ考えられるだろう。しかし最近の世界を見ていると、なんとなく、わたしたちは前の時代と同じことを繰り返しているのではないかと思えてくる。戦前が回帰しているような感じだ。
 議会政治が形骸化し無力になりつつあるようなこととか、戦前の治安維持法を思わせるような、人権や自由を脅かしかねないような法律が出来上がりつつあるとか、戦前の教育を良しとするような動きがはびこり始めているとか。つまり昭和の初めごろの社会が、また復活しているような感じ。社会が危険な方向に動きつつあるような、そんな兆しが感じられる。そういうような時だからこそ、明治から昭和初期の歴史を振り返るということは、今の私たち自身について考えるためにも必要なことではないかと思う。

 さて、堀辰雄のことを考えているのだった。彼の文学に現れている彼の人生観とか、人間観とかは、どのような特徴を持っているだろうか。それを明らかにするためには、彼の直前の時代に生きた、彼の師匠である芥川龍之介と比べてみるのが良いだろうと思う。
 芥川龍之介の文学に現れている大きなテーマの一つは、人間性というか、人間としての社会的良識と、文学的、美的理想との対立、葛藤というものだった。例えばそれは、彼の「地獄変」という作品に端的に現れている。
 「地獄変」も、彼の初期の多くの作品と同様、今昔物語という日本の古典から題材をとっている。主人公は、良秀という絵仏師だ。彼は、炎を背負った不動明王の絵を描こうとしているが、なかなかうまく描けないでいる。そのとき彼の家が火事になる。その火事で、彼の妻と娘は、炎に包まれて焼け死んでしまう。彼は一人逃げて、生き残る。後を振り返ると、自分の家が、娘と妻を巻き込んで炎の中に燃えている。その燃え上がる炎を見て、良秀は、「これだ。炎はこのように燃え上がるのだ。このように描くべきだったのだ」と、会心の笑みを浮かべながら、焼ける自分の家と家族を眺めている。周りの人間はこの様子を見て、気でも違ったのかと、良秀を気遣う。しかし良秀は、あざけるように笑いながら、人々に答える。「自分は気など違ってはいない、ただ燃える炎を見て絵の書き方が分かったので、これは大儲けだと思って喜んでいるのだ、絵について苦労したことのないお前たちにはわかるまいが」。しかし、後で絵を仕上げた良秀は、妻や娘を、自分の絵のために犠牲にしてしまったことに、良心の呵責に耐えられず自殺してしまう。その不動尊の絵は、優れたものとして、今に伝えられ、人々にほめそやされている。
 というのが、芥川が書いた「地獄変」のストーリーだ。この作品の主題は、絵仏師良秀の心における、美への追求と、人間としての良心の葛藤ということだと言える。この、社会に生きる者としての人間的な良心、良識と、高みへと超え出ようとする芸術的衝動との対立、葛藤ということが、芥川自身にも深くかかわっている問題だったと言える。彼は文学者であると同時に、良き家庭人、良き夫、良き父、さらには良き親族であろうとし、小市民的な道徳の世界に生きていた。その葛藤が、彼を疲労させ、自殺に追い込んでいったとも言える。

 一方、堀辰雄はと言えば、そのような公と私の間の葛藤、社会性と、個人的な美への追求との間の葛藤というような問題には、まったく関わっていないように見える。社会とか、人と人の間で生きるというようなこと、人間の間での正しさとかは、彼の場合視野の外に追いやられ、排除されているような印象だ。彼の場合、自分の個人としての幸福の追求だけが、関心事となっているように見える。少なくとも、「風立ちぬ」については、そんな印象だ。
 このように、社会性ということが関心の外とされ、ひたすら個人の幸福のみが、関心事となるというありかたは、堀辰雄が生きた時代の在り方と深く関係しているように思える。その時代、一般の人間にとっては、社会と個人が関係するつながりが見えなくなってきていた。人々は社会とのはっきりしたつながりを見出すことなく、個人の殻の中に閉じこもるような生き方をし始めていた。昭和初年の時代については、そんな印象だ。

             (続く)