わたしはキリスト教徒であるが、そのような者として、「風立ちぬ」という文学作品を読んでいると、ある疑問を感じてしまうのだ。
 その疑問というのは、つまり、「風立ちぬ」とかマーラーの音楽とか、つまりロマンティシズムは、キリスト教とどういう接点を持ちうるのかという疑問であり、逆に、「風立ちぬ」のような立場に共鳴する人にとっては、キリスト教は自分とは相容れない、ある種の、ごく限られた人間のタイプにだけ受け入れられる特殊なエートス(気風)に過ぎないと感じられるのではないだろうかということだ。
 キリスト教という、敬虔な生活を送るような、ある種健全な市民というようなエートスがあり、それとは異質なロマンティックな感情生活を送るタイプの人があり、それらは互いに相容れないということになるのだろうか。
 ロマンティストにとっては、キリスト教もロマンティックな感情をかき立てるための、飾りのようなもの、一つの道具立てのようなものになってしまうのではないだろうか。キリスト教の立場からは、そういうふうにキリスト教を扱うことには、不真面目な感情の遊びに堕するものと映るだろう。

 それが、結論というのではなく、感想というか疑問として、心に浮かんだことだ。
 もう一つは、「風立ちぬ」の主な登場人物は、小説家の「わたし」と、その婚約者にして恋人である節子の二人だ。あるいは節子の父も含めれば三人ということになるか。この登場人物の中で、この物語を作り出しているのが誰かというとが、一つ重要な視点ではないかと思える。もちろんこの物語を作り、語っているのは、作者である「わたし」なのだが、実はこの物語の発案者であり、その物語の創造者であり、推進者であったのは、実にこの節子ではなかったのかということだ。この作品のロマンティシズムを生み、育て、「わたし」という作者を媒介にして、人々の間に作品として形を表していったのは、実は節子という若い魂の、何というかイデーとか、モチーフとか、あるいは元型的な無意識の衝動だったのではないか。というような感じを今わたしは持っている。
 しかもこの「風立ちぬ」は、堀辰雄の実際の体験をほぼ忠実に小説化した、自伝的な作品で、節子として登場するのは、堀辰雄の婚約者であった矢野綾子という女性だとのこと。彼女は、堀辰雄と婚約した二年後に、24才で亡くなっている。
 ともあれ、この「風立ちぬ」はロマンティシズムの結晶と言えるような作品だ。その源泉はおそらく、堀辰雄という作家と、矢野綾子という若い魂の出会いにあるのだろう。