今回も説教です。
しかし次回は、もう少し違うものを書きたいと思っています。
それをちらりと明かすと。テーマは「風立ちぬ」。
それは堀辰雄の小説であるし、松田聖子の有名な歌でもあるし、例の宮崎駿の映画でもあるし。
わかんないですけど。
説教「光をどこに?」
マタイによる福音書4:12-17
今日の説教題は「光をどこに?」としました。光というのは、人が生きていく上での希望と言っても良いかと思います。つまり、人間は生きていく希望をどこに見いだすのだろうかということについて考えてみたいのです。
人間にとって希望を持たないで生き続けるというのは難しいことです。また、希望が裏切られると、人は生きる気力をなくしがちです。生き生きと生きること、生きる気力を持つことと、将来の希望とか見通しとかを持つこととは、強く関連しているのでしょう。
わたしは今、学習塾で講師として働いていますが、わたしの塾では、将来に夢を描いて、それに向けて努力することの大切さを盛んに説いています。生徒にやる気を起こさせるのにはそれがもっとも良い方法だからでしょう。前途に夢と希望を抱くことが、やる気と生きる気力をかき立ててくれるというのは事実です。
聖書に箴言という書があります。それは、人生を生きていく上での教訓を集めた知恵の書ですが、それを読んでいたら、その18章14節にこんな言葉がありました。「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」と。これも生きる気力は、希望によって駆り立てられるので、希望をなくして沈み込んだ人間は、死に近づくということを言っているのでしょう。
しかし問題は、前途に思い描いた希望、夢は、多くの場合、失望に変わり、希望は幻滅に終わることが多いということです。将来の夢は実現しないで挫折することも多いし、また仮にその夢が実現したとしても、その夢が現実のものとなってしまえば、思い描いていたような満足は得られず、灰色の現実を前に失望を味わうというのも、普通にあることです。
イエズが「神の国は近づいた」と叫んで、人々の前に現れたことを、今日の福音書では、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者たちに、大きな光が射し込んだ」と述べて、イエスが人々にとって希望の光として現れたことを表現しています。
しかしこのイエスがもたらした希望の光は、果たして、われわれがこの世でよく経験するような希望なのでしょうか。やがてやってくるだろう理想の世界を人々に示して、それへと人々を駆り立てておきながら、結局失望と挫折と幻滅に終わってしまうような、そんなこの世の希望なのでしょうか。イエスはわたしたちにどんな希望をもたらそうとされるのでしょうか、彼はどんな光をわたしたちに与えようとされるのでしょうか。イエスがわたしたちにとって、失われることのない、この世がもたらすことのできない希望であるというのは、どんなことなのでしょうか。少し考えてみましょう。
今日の福音書は、イエスが人々の前に公に現れて、活動を始めたときのことを伝えています。それは、バプテスマのヨハネが捕えられたときのことで、イエスはその知らせを聞いて故郷のガリラヤに退かれます。そして生まれ故郷のナザレからは近い、カファルナウムに来て、そこを活動の場所とされます。しかしイエスはなぜこのとき、この場で活動を始められたのでしょうか。
その当時イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼のグループに加わっていました。つまりそのときイエスは、ヨハネの弟子であり、そのグルーブの一員でした。その時、先生であるヨハネが逮捕されて獄につながれるということが起こってきます。当然彼のグループにも迫害の手は伸びてきます。バプテスマのヨハネのグループにとっては大きな試練の時でした。イエスもその迫害の手から逃れるために、中央のエルサレムを離れて、故郷の地方であるガリラヤに行ったと考えられます。そんな状況だから、当たり前なら迫害を免れるために、ひっそりと隠れ潜んでいるのが当然だろうと思われます。しかしそのとき、イエスの中で何かが起こります。彼は常識なら敵を恐れて隠れているのが当然のこのときに、それとは全く逆の行動に出ます。彼はあえて人々の前に出て行って、ヨハネと同じ言葉で語り始めます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。
しかしその当時の客観的な情勢を考えれば、「天の国は近づいた」というのとは逆に、指導者は逮捕され、仲間は迫害を恐れてちりぢりになっているという状況で、むしろ客観的に見れば天の国は遠ざかっているとしか考えられなかったでしょう。ヨハネの弟子たちにとっては、天の国が近いという希望に燃え立っていた状態から、それとは逆の現実に直面して情熱は冷やされ、失望が広がっていたかもしれません。そういう現実の逆風の中で、イエスはあえて「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、人々に、受け入れにくく信じられることが難しいようなことを宣べ伝え始めたわけです。それはなぜなのでしょうか。
イエスの「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのと、ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのとは、同じことを意味しているのでしょうか。言葉は全く同じですが、その内容も同じなんでしょうか。イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいたと言ったとき、何を意味していたのか。それがもっとも大事なことと思われます。そしてそれが分かれば、イエスがなぜこのとき、そのところで活動を始められたのかも理解できるように思えます。
マルコによる福音書では、マルコにしては珍しいことに、イエスの最初の言葉、伝道開始の宣言ともいうべき言葉が、マタイやルカよりも詳しく載っています。それは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」というものです。マルコの場合、他の福音書と比べて新しいのは、「悔い改めて福音を信ぜよ」ということです。悔い改めというのは心の向きを変えるということを意味しますが、その心の向きが福音へと向き関わるということを、わたしたちに求めているわけです。つまり、天の国の内容が福音ということであって、これがイエスによって、わたしたちの間で実現しているということです。そしてわたしたちの間で、神の国、神の働きが、全く独占的に神の側から、今ここにイエスにおいて実現しているということ、その、わたしたちに向けて近づいてくる福音にわたしたちが目を向け、わたしたちがこのまま神によって受け入れられていることを受け入れること、それが「福音を信ずる」ということです。その福音を受け入れることによってわたしたちが根本的に変えられること、それがイエスの「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉が意味し、求めていることです。
だとすれば、イエスが、暗闇の地、死の陰の地、中央から離れた辺境の地ガリラヤ、この見捨てられた土地において、ヨハネが捕えられて人々の希望が潰え去ったかに見えるこのときに、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言し、人々に呼びかけたのも、理解できるのではないでしょうか。そしてそのイエスの声は、この世の辺境において、死の陰の地を行っているわたしたちにも呼びかけているのです。
イエスの天の国というのは、普通わたしたちが思っているような、未来にその実現が求められる、今はまだない未来の理想世界のことではありません。また「悔い改め」というのも、その未来の理想を実現するために、わたしたちに努力が要求されることでもありません。
イエスの天の国とは、未来に向けてわたしたちを駆り立てる、今はまだ存在しない理想のことではありません。そのような理想は、蜃気楼のようなもの、あるいは逃げ水のようなもので、人々を空しく駆り立てる幻にすぎません。求めても求めても叶わない幻想です。このような理想を追い求める限り、人は自分のありのままを受け入れることも、自分に今現に与えられているものを肯定することもできません。今自分に与えられているものが、どんなに素晴らしいものであるかに気づくこともないのです。
イエスが「天の国は近づいた」と言ったのは、近い将来のことではなく、ご自分とともに今すでに神の働きが始まっているということでした。人間の罪とかいろいろな問題にも関わらず、人間をありのままに受け入れ、赦し、義と認めて、ご自分の懐へと抱きとってくれる神の愛の働きが、イエスご自身において始まっているということです。
自分を肯定することのできないもの、自分の弱さや悩みに押しつぶされているもの、希望をなくしてうち沈んでいるもの、人生の暗闇をさまよっているもの、そういうマイナスを自分のこととして感じている者たちにイエスは近づき、神が無条件にともにいてくださることを示すのです。神が無条件にともにいてくださること、同伴者としていてくれることが、暗闇を行く者たちにとっての希望となり、光となるのです。
だからイエスが「悔い改めよ」といったのは、わたしたちに善い行いを迫るためではなく、そのようなだめな自分たちを見る目を転じて、イエスとともにある愛なる神に、そしてその愛によって赦され、受け入れられ、導かれている自分自身に目を向けよということだったのです。イエス自身が、わたしたちに近づいてくる神の国であり、わたしたちが悔い改めて心を向け変えるべきなのは、イエスの存在に対してなのです。
祈ります。神さま。あなたはわたしたちを愛して、ありのままに受け入れてくださいます。わたしたちがそのことに心を留めて、わたしたちも人々を受け入れることができるようにさせてください。主イエスによって祈ります。
しかし次回は、もう少し違うものを書きたいと思っています。
それをちらりと明かすと。テーマは「風立ちぬ」。
それは堀辰雄の小説であるし、松田聖子の有名な歌でもあるし、例の宮崎駿の映画でもあるし。
わかんないですけど。
説教「光をどこに?」
マタイによる福音書4:12-17
今日の説教題は「光をどこに?」としました。光というのは、人が生きていく上での希望と言っても良いかと思います。つまり、人間は生きていく希望をどこに見いだすのだろうかということについて考えてみたいのです。
人間にとって希望を持たないで生き続けるというのは難しいことです。また、希望が裏切られると、人は生きる気力をなくしがちです。生き生きと生きること、生きる気力を持つことと、将来の希望とか見通しとかを持つこととは、強く関連しているのでしょう。
わたしは今、学習塾で講師として働いていますが、わたしの塾では、将来に夢を描いて、それに向けて努力することの大切さを盛んに説いています。生徒にやる気を起こさせるのにはそれがもっとも良い方法だからでしょう。前途に夢と希望を抱くことが、やる気と生きる気力をかき立ててくれるというのは事実です。
聖書に箴言という書があります。それは、人生を生きていく上での教訓を集めた知恵の書ですが、それを読んでいたら、その18章14節にこんな言葉がありました。「人の霊は病にも耐える力があるが、沈み込んだ霊を誰が支えることができよう」と。これも生きる気力は、希望によって駆り立てられるので、希望をなくして沈み込んだ人間は、死に近づくということを言っているのでしょう。
しかし問題は、前途に思い描いた希望、夢は、多くの場合、失望に変わり、希望は幻滅に終わることが多いということです。将来の夢は実現しないで挫折することも多いし、また仮にその夢が実現したとしても、その夢が現実のものとなってしまえば、思い描いていたような満足は得られず、灰色の現実を前に失望を味わうというのも、普通にあることです。
イエズが「神の国は近づいた」と叫んで、人々の前に現れたことを、今日の福音書では、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者たちに、大きな光が射し込んだ」と述べて、イエスが人々にとって希望の光として現れたことを表現しています。
しかしこのイエスがもたらした希望の光は、果たして、われわれがこの世でよく経験するような希望なのでしょうか。やがてやってくるだろう理想の世界を人々に示して、それへと人々を駆り立てておきながら、結局失望と挫折と幻滅に終わってしまうような、そんなこの世の希望なのでしょうか。イエスはわたしたちにどんな希望をもたらそうとされるのでしょうか、彼はどんな光をわたしたちに与えようとされるのでしょうか。イエスがわたしたちにとって、失われることのない、この世がもたらすことのできない希望であるというのは、どんなことなのでしょうか。少し考えてみましょう。
今日の福音書は、イエスが人々の前に公に現れて、活動を始めたときのことを伝えています。それは、バプテスマのヨハネが捕えられたときのことで、イエスはその知らせを聞いて故郷のガリラヤに退かれます。そして生まれ故郷のナザレからは近い、カファルナウムに来て、そこを活動の場所とされます。しかしイエスはなぜこのとき、この場で活動を始められたのでしょうか。
その当時イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、彼のグループに加わっていました。つまりそのときイエスは、ヨハネの弟子であり、そのグルーブの一員でした。その時、先生であるヨハネが逮捕されて獄につながれるということが起こってきます。当然彼のグループにも迫害の手は伸びてきます。バプテスマのヨハネのグループにとっては大きな試練の時でした。イエスもその迫害の手から逃れるために、中央のエルサレムを離れて、故郷の地方であるガリラヤに行ったと考えられます。そんな状況だから、当たり前なら迫害を免れるために、ひっそりと隠れ潜んでいるのが当然だろうと思われます。しかしそのとき、イエスの中で何かが起こります。彼は常識なら敵を恐れて隠れているのが当然のこのときに、それとは全く逆の行動に出ます。彼はあえて人々の前に出て行って、ヨハネと同じ言葉で語り始めます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。
しかしその当時の客観的な情勢を考えれば、「天の国は近づいた」というのとは逆に、指導者は逮捕され、仲間は迫害を恐れてちりぢりになっているという状況で、むしろ客観的に見れば天の国は遠ざかっているとしか考えられなかったでしょう。ヨハネの弟子たちにとっては、天の国が近いという希望に燃え立っていた状態から、それとは逆の現実に直面して情熱は冷やされ、失望が広がっていたかもしれません。そういう現実の逆風の中で、イエスはあえて「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、人々に、受け入れにくく信じられることが難しいようなことを宣べ伝え始めたわけです。それはなぜなのでしょうか。
イエスの「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのと、ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのとは、同じことを意味しているのでしょうか。言葉は全く同じですが、その内容も同じなんでしょうか。イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいたと言ったとき、何を意味していたのか。それがもっとも大事なことと思われます。そしてそれが分かれば、イエスがなぜこのとき、そのところで活動を始められたのかも理解できるように思えます。
マルコによる福音書では、マルコにしては珍しいことに、イエスの最初の言葉、伝道開始の宣言ともいうべき言葉が、マタイやルカよりも詳しく載っています。それは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」というものです。マルコの場合、他の福音書と比べて新しいのは、「悔い改めて福音を信ぜよ」ということです。悔い改めというのは心の向きを変えるということを意味しますが、その心の向きが福音へと向き関わるということを、わたしたちに求めているわけです。つまり、天の国の内容が福音ということであって、これがイエスによって、わたしたちの間で実現しているということです。そしてわたしたちの間で、神の国、神の働きが、全く独占的に神の側から、今ここにイエスにおいて実現しているということ、その、わたしたちに向けて近づいてくる福音にわたしたちが目を向け、わたしたちがこのまま神によって受け入れられていることを受け入れること、それが「福音を信ずる」ということです。その福音を受け入れることによってわたしたちが根本的に変えられること、それがイエスの「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉が意味し、求めていることです。
だとすれば、イエスが、暗闇の地、死の陰の地、中央から離れた辺境の地ガリラヤ、この見捨てられた土地において、ヨハネが捕えられて人々の希望が潰え去ったかに見えるこのときに、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言し、人々に呼びかけたのも、理解できるのではないでしょうか。そしてそのイエスの声は、この世の辺境において、死の陰の地を行っているわたしたちにも呼びかけているのです。
イエスの天の国というのは、普通わたしたちが思っているような、未来にその実現が求められる、今はまだない未来の理想世界のことではありません。また「悔い改め」というのも、その未来の理想を実現するために、わたしたちに努力が要求されることでもありません。
イエスの天の国とは、未来に向けてわたしたちを駆り立てる、今はまだ存在しない理想のことではありません。そのような理想は、蜃気楼のようなもの、あるいは逃げ水のようなもので、人々を空しく駆り立てる幻にすぎません。求めても求めても叶わない幻想です。このような理想を追い求める限り、人は自分のありのままを受け入れることも、自分に今現に与えられているものを肯定することもできません。今自分に与えられているものが、どんなに素晴らしいものであるかに気づくこともないのです。
イエスが「天の国は近づいた」と言ったのは、近い将来のことではなく、ご自分とともに今すでに神の働きが始まっているということでした。人間の罪とかいろいろな問題にも関わらず、人間をありのままに受け入れ、赦し、義と認めて、ご自分の懐へと抱きとってくれる神の愛の働きが、イエスご自身において始まっているということです。
自分を肯定することのできないもの、自分の弱さや悩みに押しつぶされているもの、希望をなくしてうち沈んでいるもの、人生の暗闇をさまよっているもの、そういうマイナスを自分のこととして感じている者たちにイエスは近づき、神が無条件にともにいてくださることを示すのです。神が無条件にともにいてくださること、同伴者としていてくれることが、暗闇を行く者たちにとっての希望となり、光となるのです。
だからイエスが「悔い改めよ」といったのは、わたしたちに善い行いを迫るためではなく、そのようなだめな自分たちを見る目を転じて、イエスとともにある愛なる神に、そしてその愛によって赦され、受け入れられ、導かれている自分自身に目を向けよということだったのです。イエス自身が、わたしたちに近づいてくる神の国であり、わたしたちが悔い改めて心を向け変えるべきなのは、イエスの存在に対してなのです。
祈ります。神さま。あなたはわたしたちを愛して、ありのままに受け入れてくださいます。わたしたちがそのことに心を留めて、わたしたちも人々を受け入れることができるようにさせてください。主イエスによって祈ります。