説教「ヨセフ・沈黙の賛歌」
     -マタイによる福音書1:18-23

 去年の今頃の時期、わたしは病院にいました。
 脳梗塞で入院してから三か月で、もうだいぶ良くなってきていて、車椅子から離れることができたころでした。そのころ病院でもクリスマス会が催されて、入院患者たちが大勢ロビーに集まってきました。病院職員の人たちがハンドベルを演奏したり、ちょっとしたゲームを楽しんだりしました。「きよしこの夜」もみんなで歌いました。わたしもその集まりに出ていて、その病院のクリスマスを見て、いろいろなことを思いました。一番強く感じたのは、ああこういう病院のようなところでも、クリスマスは祝われているんだということでした。集まったのは大半、車椅子に乗ったり、杖をついたりしているじいさんばあさんたちで、その多くはいつもは教会にも、キリスト教にも縁のない人たちです。しかしそんなところでもクリスマスは祝われていて、キリストの誕生が覚えられている。もちろん、彼らはそんな、キリストの誕生を覚えるとはどんなことなのか自覚はしていないだろうけど、しかし実際、病気に悩み苦しんでいる人たちのもとにこそ、われわれと共におられるキリストが来られるというのはふさわしいことで、だからこれも立派なクリスマスなんだろう。そんなことを考えたりしていました。

 さて、今日はアドヴェントの第三週で、イエスの誕生物語が語られ、ヨセフが登場します。ヨセフはその当時は大工をしていましたが、系図によるとダビデ王の子孫のひとりでした。彼はマリアと婚約していて、やがていずれ結婚することになっていました。彼はその日を楽しみに待っていましたが、その彼にとんでもない出来事が起こります。婚約者のマリアが妊娠しているという話でした。もちろんその話はまだみんなに知れ渡ってはいませんでしたが、彼の周辺ではそろそろ噂になりかかっていました。彼は事の真偽を確かめると、それが事実であると分かって、どうしようと考え始めます。その当時のユダヤの律法によれば、婚約している女性が他の男性と関係をもって妊娠したという場合、重大な律法違反ということで、石打の刑で殺さなければならないとなっていました。ヨセフは律法をきちんと守る律儀な男だったので、本当ならマリアは死刑となるはずでしたが、それはこれまで一緒に暮らしてきていてよく知っている相手なので、そういうむごい仕打ちはできればやりたくない、内々に人に知られないようにマリアと縁を切る方法はないものかと考え始めました。しかし、婚約を解消するのにも公に証人を立てなければならないという決まりがあったので、ヨセフはどうすればよいかと悩んでいました。
 そういうことを思い悩みながらうとうとまどろんでいると、彼の夢の中に主の天使が現れて、彼に語りかけます。「マリアは決して不倫をして身ごもったのではない。彼女が身ごもったのは主の霊がそうさせたのだ。だからおまえは思い悩む必要はない。心配せずに彼女と結婚するがよい。そしてその子をイエスと名付けなさい。」そう夢の中でお告げを受けて、ヨセフはマリアを妻として受け入れる決心をします。
 ちなみにイエスという名前ですが、これはその当時普通にあった男性の名前で、旧約聖書ではヨシュアという名前に当たります。その意味は「神は救い」ということです。だから今日の個所でも、「生まれてくる子供をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と書いてあるのはそういうわけで、日本語ではつながりがあまりよく分からないですね。またマタイの福音書では、この乙女マリアからイエスが生まれたのは、預言者イザヤが言ったことが実現するためだったと書いています。そしてこのイエスは、インマヌエル、つまり「神が我々と共におられる」ということを現わしていると。つまりイエスというのは、神の働きを具体化する存在だということで、彼によって神が我々と共におられて、無条件に罪を赦し、神との隔てを取り除いて、神との交わりを実現するのです。
 このマリアに起こった神の働きを、ヨセフも受け入れて、二人で共に神の計画に参加していくことになった、今日の物語はそういうことを意味しています。一言で言えば、ヨセフの信仰の物語です。この信仰はどういうことを意味するのか、少し考えてみたいと思います。

 またルターの話になって申し訳ないですが、ルターはクリスマスが大好きだったそうです。なぜルターがクリスマスが好きだったかというと、ここから少しティリッヒの本の中にあった言葉を引用しますけど、「キリストなしにわれわれは神の尊厳に耐えることができず、狂気と憎悪に駆り立てられるのである。ここに、ルターがクリスマスの祝祭を大いに愛好した理由がある。彼はクリスマスが好きだった。なぜならそれは、キリストにおいて自らを小さい者とした神を祝うものだからである。その最も小さい者、それが飼葉桶のキリストなのである。ルターは、クリスマスの本来的意味を、飼葉桶のなかに横たわる神が同時に全能の神であるという逆説のなかに見たのである。最も小さく最も頼りない存在がその中に神の心を宿している」。ルターにとってクリスマスは、飼葉桶のなかに横たわる幼子イエスのなかに、全能の神の心が宿っていることを現わすものでした。
 これを言い換えれば、世界の中の周辺的なものが、世界の中心と入れ替わることと言って良いかと思います。世界の中の周辺であるユダヤの、そのまた周辺であるナザレという片田舎の町の、貧しく名もない二人の夫婦に生まれた赤ん坊が、この最も小さく頼りない存在が、世界の中心を超えた全存在の源である神であるということ、それがクリスマスが語っていることであり、われわれと共なる神を示しているのです。そしてこの無力な幼子イエスの姿は、同時に十字架の上でみじめに死んでいくイエスの姿でもあり、その無力の姿の中に、信仰は、全世界の中心であり、全存在を支えている究極の力である神を見るのです。これを逆説とも言えますが、それはわたしたちが生きる源を示してもいるのです。 

 というのは、わたしたちが自分自身を見るとき、そこには常に、自分が世界の中で絶えず周辺的なものとして生きていることに気づかされるからです。わたしたちが自分自身を見るときに、わたしたちが自分がひとりぼっちでしっかりした頼りもなく、不安の中で生きていることに気づくときがあるでしょう。そして結局は、一人で生まれ出てきたのと同じように、たったひとりで死んでいくのだ。それはこの世の流れとはまるで無関係で、わたしが死んでも、世の中は前と全く変わらずに進んでいく。このようにして、わたしたちは自分がこの世の周辺にいるということを思い知るわけですが、このようなわたしたちに神は共にいてくださり、関わってくださるのです。全存在の中心であり、究極の力である神が、このようなこの世の周辺の、無力なわたしたちと共にいてくださり、関わってくださるのです。このような「わたしたちと共なる神」こそ、本当のわたしたちにとっての神であり、その神がイエスにおいて現れているのです。このイエスは、わたしたちにとっても「わたしたちと共なる神」なのです。

 今日の話はヨセフの話でしたが、ヨセフはマリアの夫であり、二人は夫婦として一心同体です。ルカによる福音書ではマリアは、イエスの誕生を告げた天使に対して、有名なマリアの賛歌を歌っています。「わたしの魂は主をあがめ」で始まるあの歌です。「わたしの魂は主をあがめ/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます/身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」
 マリアは最初自分が身ごもったことを受け入れることができず、「どうしてそんなことがあり得るでしょうか」と言って逆らっていましたが、最後には「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と、自分の運命を受け入れました。
 ヨセフに起こったこともまた同じことで、最初それは受け入れがたい不幸と思われました。しかし、やがて主の言葉通り、マリアを受け入れイエスの父となるという運命を受け入れました。そしてその後に起こってくる出来事も、故郷を離れてエジプトにさすらうというような、彼にとっては過酷な運命とも言うべきものでした。
 しかしおそらく彼は、これらの試練も喜んで受け入れただろうと思います。なぜならそれは、世界の中心である神とともに担っていく試練だったからです。全人類のための「われわれと共なる神」の歩みを、共に歩んでいくことだったからです。
 ヨセフは、聖書の中の登場人物としては、一言も台詞を発していないということで、「沈黙の聖者」と呼ばれることもあるそうですが、しかし彼は、神に対して応えて行動していったという点では雄弁に語っているし、信仰の賛歌を歌っていると言えるでしょう。

 祈ります。神さま。あなたは小さなわたしたちを顧み、共にいて、全てを挙げて関わっていてくださいます。わたしたちも、その顧みに応えていくことができるようにしてください。主イエスキリストによって祈ります。アーメン。