説教以外に書くことがあれば良いと思いながら、まとまらない。説教は聞き飽きたという人には申し訳ないが、今のところしようがない。

   説教「滅ぼすものと保つもの」
      ルカによる福音書20:27-40


 今日の聖書の個所は、イエスの最後の一週間に起こった出来事の一場面です。
 イエスは弟子たちや群衆を率いて、エルサレム神殿に入られます。人々はイエスを来たるべきメシアではないかと、彼に期待をかけて注目していました。
 そしてそのエルサレム神殿で、いろいろな人たちと論争されます。その人たちは多くは、その当時のユダヤ社会で指導者として権威をふるっていた人たちでした。今日の話に出てくるサドカイ派というのも、その指導層のグループの一部で、神殿の儀式を司っていた祭司たちが主でした。彼らはファイサイ派のグループと対立していて、ファリサイ派が律法の教えと会堂での説教を重んじるのに対して、世襲の祭司職と神殿での儀式を重んじていました。また彼らは聖書としては、旧約聖書の最初の方に収められているモーセ五書だけを認めていました。そして、ファリサイ派と違って、復活はないと主張していました。
 さて、エルサレム神殿で教えておられるイエスのところに、このサドカイ派の人たちが近づいてきて尋ねます。「モーセの律法によると、ある男が子供を作らないで死んだ場合、その妻は弟のところに嫁いで、兄のために子供をもうけなければならないとあります。ところで、ある男に妻がいましたが、この男は子供を残さずに死んでしまいました。妻はモーセの律法の通りに、その弟のところに嫁いで、弟の妻となりました。ところがこの弟も妻との間に子供を残さずに死にました。同様にこの女は七人の兄弟と次々に結婚しました。しかし、いずれも子供ができずに死んでしまいました。最後にこの女も死にました。もし復活ということがあるとしたら、この女はこの七人兄弟の誰の妻となるのですか」というのです。
 サドカイ派の人たちの論理は、復活ということはないことを論証するために、もし復活があるとしたら、このような矛盾が起こると述べるやり方で、数学では「背理法による証明」と言われるものです。
 しかしその前提となっているのは、復活ということを、生前のこの世での生活そのままに復活すると考えることです。つまり彼らの考えていた復活というのは、この世の生活がそのままに再現するということでした。いわばこの世の再現としての復活ということで、その前提が成り立つときだけ、彼らの論理は成り立つのです。
 それに対してイエスがお答えになったのは、復活というのはあなたたちが考えているようなことではない、この世の物事がそのまま再現して繰り返されるということではないということでした。死んだ者たちが、将来いつかどこかで生き返って、この世に生きた過去の生き方をもう一度繰り返す、復活ということはそういうことではない。イエスは、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、復活した人たちはもう死ぬことはなく、めとることも嫁ぐこともない」と言われます。
 たしかに人間が結婚したり、子供を作ったりするのは、人間は一人一人としては生きる時間は限られていて、いつかは死ななければならないからでしょう。人間は、また生物は、一人一人としては有限な時間しか生きられないので、それを越えて生物として生き延びるためには、子供を作り、いのちを次に手渡さなければなりません。それがこの世のいのちのあり方です。
 そのようなこの世のいのちのありようで十分で、何も問題がないとすれば、復活ということは考える必要もないことです。生物の種として、集団として生き延びることで十分で、わたしにとってかけがえのない「このわたし」という、ただ一つの存在はどうでもよいということならば、「わたし」の復活ということは考える必要はないでしょう。復活ということがわたしたちにとって、この世を生きるために欠かすことのできない希望であるのは、この世のあり方をわたしたちが、受け入れがたい、あってはならない悲劇と感じるからでしょう。復活ということでわたしたちが待ち望んでいるのは、この世のものの再現ではなく、この世を超えた次の世が実現することなのです。復活を待ち望むとは、来るべき新しい神の国を希望するということです。

 さて、もうずっと昔の話ですが、わたしの知り合いから一冊の小さな小冊子をもらいました。それは、その当時浜松に住んでいた平沢弥一郎という方が、少部数発行していた個人雑誌で、知人の人たちに配っていたものでした。平沢先生本人から直接いただいたわけではなく、先生を知っていたわたしの知り合いから、人づてでもらったのです。
 この平沢弥一郎という方は医者で、静岡大学やその他で教授をされていました。足の裏の研究で有名で、一時期はよくテレビに出ておられました。大学を辞めてからは浜松に住んで、クリスチャンだったので、無教会主義の集会に出ておられたそうです。その先生が発行して知人に配っていた雑誌のタイトルは、「小使徒」、小さい使徒というのでした。
 その中で先生は、昔の思い出を随筆として書いておられました。なんでも先生は若いころ浜松で駆け出しの医師として働いていたが、夫婦の間に男の子ができた。先生はこの幼い子供をとてもかわいがっていた。好奇心旺盛な子で、先生はこの子を「小さな科学者」と呼んでいた。ところが二歳頃のこと、この子は近くの池で遊んでいるうちに、深みにはまっておぼれて亡くなってしまった。もちろん先生夫婦は深く悲しんだが、時がたつにつれてその悲しみも和らぎ、新しい子供もできて、この子は無事に成長していった。あの幼くして亡くなってしまった子供のことは、その後誰にも話さずにいたが、自分個人の雑誌ということで、思い出すままにそのことを書いてみた。だいたいそんな内容だったと思います。
  そしてその後どのくらい経ってからか、ある日新聞を読んでいたら、あの平沢先生が亡くなったという記事を目にしました。膵臓がんだったかと思います。世に知られた人だったからその死も記事となって、わたしも偶然それを知ることになったわけです。もちろんその記事の中に、例のあの子供のことは書いてなかったです。そのときわたしが考えたのは、あの幼くして死んでしまった子供は、先生の記憶の中だけにしまい込まれて、世の中からは忘れられてしまった、しかしその平沢先生も亡くなってしまった今は、あの子供のことはいわば二重に忘れ去られて、完全にその存在の痕跡も残さず、世の中から消えてしまうことになる、そういうことでした。
 しかしひるがえって考えてみれば、その存在の痕跡も残さず消えてしまうのは、あの小さな子供ばかりではないでしょう。わたしたちも多かれ少なかれそういうものです。あなたはちりだからちりに帰るという言葉は、この世の全てのものに向けて発せられた、神の呪いの言葉です。わたしたちは全て例外なく、ちりから生まれ、ちりに帰る。生まれて生きて、楽しんだり悲しんだり、泣いたり笑ったり、何事かを望み、何事かに努力しながら、成功することもあり失敗することもある。そういうふうに、いろいろなことをしながら生きていきます。しかし、生きているときに何をし、何を考え感じようと、結局最終的には、ちりに帰り、無に帰する、それがわれわれなのでしょうか。ちりだからちりに帰る、それが最終最後の結論なのでしょうか。

 
 
 もう一度聖書に戻って考えてみましょう。
 サドカイ派の人たちは、復活がないことを証明する材料として、七人の兄弟と結婚した女のことを取り上げていました。復活があるとしたら、あの女は誰の妻となるのか、矛盾だろう、だから復活というのは不合理で、あり得ないのだと言って。
 しかし、この話の当事者の女の身になってみれば、あるいは子供のできない兄弟の身になってみれば、どうでしょうか。この女は子供ができないことで、世間の冷たい目に耐えなければならなかったのではないでしょうか。聖書には、子供ができないことで辱められ、苦しんだ女の例はたくさん取り上げられています。アブラハムの妻サラとか、預言者サムエルの母ハンナとか、新約聖書だとエリザベトもそうでした。子供を授かることが神から祝福されているしるしと見られていた時代に、子供ができないことは、女性にとっては最大の不幸だったはずです。またこの女と結婚した七人兄弟にとっては、自分たちの子孫が絶えてしまうと言うことは、最大の災いであり、神の呪いとも考えられたでしょう。このように子供ができないことで悩み苦しんだ彼らは、その不幸の解決を見ることなしに、全員死に絶えてしまったと、サドカイ派の人たちの伝える物語は語っています。サドカイ派の人たちは、自分たちの論理を主張するために、知ってか知らずか、この物語の伝える悲しさを無視しています。
 イエスは、そこに登場する人々の悲しみにも痛みを持って同情し、このように話されます。いや、彼ら七人兄弟とこの女とは、死んでいなくなったのではない。その苦しみが癒されないままでいるのでもない。彼らも含めて、全ての人は神において生きているのだ、と。この世においては時間が全てを滅ぼし、人々が抱く望みも希望も叶えられず、実現されないままに、ちりに帰り無に帰するのだが、神においては、全ての人の命も、その願いも神の心の内に保たれ、実現されるのだ、と。アブラハムもイサクもヤコブも、この世においては死んでしまってもういないのだが、しかし神においてはなお、彼らは死んだ者ではなく、生きている者なのだ。神は永遠に、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なのだ、と。
 このように、復活は神を信ずる信仰のことがらであり、この世に生きるものの絶望の問いに対して、そうではない 、全てが無に帰するというのが最後の言葉なのではないと答えるのです。そしてその根拠は、われわれと共なるキリストの存在であり、キリストにおいて現わされた神の愛です。神を信じることによって、復活をたしかなものとして希望することができるのです。そしてその希望の内に、わたしたちは生きていくことができるのです。

 祈ります。神さま。あなたを信じて、あなたがその愛によって、わたしたちのために実現される復活を仰ぎ見て、生きていくことができるようにさせてください。イエス・キリストによって祈ります。アーメン。