説教「いのち、不思議の中の不思議」
ヨハネによる福音書2章13-22
2013年10月27日 蒲田教会での説教
少し考えてみてほしいのです。わたしたちがここに、このようにして生きているということは、実は不思議きわまりないことではないのかと。
わたしたちは同じ人間として、お互いにつながり合って生活しています。誰も一人では生きていけない。わたしたちは、社会の中で、ともに助け合いながらでないと、一日もまともに生きていけません。しかし、不思議というのはそのことではありません。人間が生物の一種として、社会を作って、助け合いながら生きていく存在だというのは、それはそれで十分興味深いことですけど。しかしそれは、生物の仕組みとして、科学的に説明できることです。
わたしが不思議に思うのは、そのようなわたしたちが、それぞれ一人一人自分自身というものを持っているということです。わたしたちは生物としての人間、社会の中の一員であるとともに、それぞれただ一人の「わたし」でもあるということです。わたしはわたし、他の誰でもない。わたしはただ一人、この世界に対している存在で、ここでこのようにして世界を見ているのは、わたしただ一人だ。わたしはただ一人わたしの世界を見ているもので、この世界は、またわたしの仲間の人間たちも、わたしから見られている存在だ。見るとのと見られるものとは、全然種類の違うものなのではないか。だとすれば、わたしはただ一人で存在していて、わたしの周りのものとは本当には関係を持たないのではないのか。わたしが死んだとしても、それはわたし一人の死であって、わたし以外の人たちは、それとは関係なく、わたしが死んだとしてもずっと生き続けていくのだろう。そんなことを考えたことはないでしょうか。
このようにわたしたちは、たった一人のそれぞれの「わたし」として、しかも人々と共に生きているということ、周りとつながらない孤独な一人の「わたし」として、しかし実際上、周りとつながり、ともに助け合いながら、愛し合いながら生きていくということ、わたしたちはそのようなあり方で存在しています。それをわたしは不思議なことだと思うのです。人々とともに、社会の中で、ただ一人のそれぞれの「わたし」として存在していること、それは客観的な世界を研究する科学からは説明できないことです。このような「わたし」がどこから出てきているのかといえば、やはり神からとしか言えないと思います。
このようなたった一人の「わたし」と向き合い、その孤独と不安の体験の中から、ついに福音の神、キリストを見いだし、人々と共に生きるあり方に至ったのが、ほかならないルターでした。
今日は宗教改革主日ということで、ルターから始まる宗教改革を覚える日です。
1517年10月31日、アウグスティヌス修道会に属する修道士ルターが、ヴィッテンベルグの城教会の扉に、ある文書を掲げたのが、宗教改革のそもそもの発端でした。なぜ10月31日だったかというと、その翌日が全聖徒の日に当たっており、町の人たちが多く教会に集まると予想されたからでした。彼が訴えたかったのは、贖宥状(しょくゆうじょう)普通に言う免罪符の販売に反対して、本当の悔い改めとは何かを明らかにしたいということでした。
その当時カトリック教会では、必要なお金を集めるために免罪符を販売していました。そしてこのお札を金を出して手に入れると、心からの悔い改めとか、懺悔とかがなくても、罪は赦され、地獄行きを免れると宣伝していました。ルターはそれを問題と感じて、教会とか教皇には人々の罪を赦す権能も力もない、罪を赦すのはただ神だけであって、心から罪を悔い、赦しを願い求める心に神は応えるのだ、罪の赦しにはただ心からの悔い改めが必要なのだと主張したのです。それがルターが掲示した95箇条の論題の内容で、彼はただ、修道士たちや神学者仲間で、その問題に対する討論が行われることだけを想定していたのです。しかし彼の思いとは別個に、この論題は多くの人に読まれて共感を集めることになりました。そしてあれよあれよという間に、宗教改革の動きが始まっていくことになったのです。
宗教改革の始まりはそういうことだったのですが、実はこの宗教改革の動きは、この事件の以前に、ルターの心の中にそもそもの始まりがあったのです。それは、ルター個人の心の葛藤を通じて、聖書の中に福音を発見したという、全く個人的な内面における事件でした。このルター一人の、全くただ一人の心の中で起こった体験は、孤独の内に行われたもので、「塔の体験」と呼ばれています。修道院でルターが、塔のある建物の部屋で暮らしていたことから、そう呼ばれています。つまり宗教改革は、一人の人間の内面の回心から始まっているのです。回心というのは、心の向きが180度変わることです。ではどのように、ルターは心の向きが変わったのでしょうか。
ルターが法律の勉強を放棄して、修道士となったそもそもの動機は、心の不安ということでした。「わたしはどのようにして憐れみ深い神を獲得できるか」というのが、彼の根本の問でした。つまりどのようにしたら、良心の不安のない、究極の安心を得られるのかということ、どうしたら揺らぐことのない自己肯定に至れるのかというのが、ルターの心を占めていた問題で、究極的な関心事でした。彼はこの問に対する答えを必死で追い求めていきました。
しかし、修道院で勧められていた善いとされる行いを、全てこれ以上にないほどやり尽くしたにもかかわらず、彼には神に近づいたという確信が起こらず、心の不安は収まることはありませんでした。彼はそういう心の葛藤に悩みながら、聖書の中に解決を求めていきました。そしてついに、パウロの手紙の中の言葉を手がかりにして、神の義についての新しい読み方を発見しました。それは神の義を、罪人を裁く神の義としてでなく、罪人に無条件に与えられる、贈り物として神の義を理解することでした。だから人間に求められるのは、神に義と認められるような善い行いではなく、無条件に人間を義と認め、受け入れ、肯定してくれる神の側からの愛の働きを、受け入れ、それにより頼む信仰でした。一言で言えば、キリストを信ずる信仰でした。自分の行いによって、自己を肯定し、安心を得ようとすることに挫折したルターが見いだしたのは、神の側からの働きによってすでに受け入れられている自分でした。キリストの中に神を見いだしたルターは、このようにして、自己の不安と孤独という問題の答えを、最終的に見いだしたわけです。
そしてその三年か四年の後に、免罪符の問題を巡って、宗教改革という動きが始まることになります。ルターによる信仰義認の発見は、純粋に個人的な心の中の出来事でしたが、宗教改革は、多くの人を巻き込む大きな社会的な出来事でした。この二つの出来事は、しかし、密接につながっています。それは偶然の出来事ではありません。この一連の出来事は、個人個人の心が、それぞれ個々別々に切り離されて存在するにもかかわらず、それが神とつながるときに、他の人々とつなが合うようになるということを、典型的に示しているのだと思われます。
さて今日の福音書ですが、ヨハネによる福音書の、例の「宮浄め」の個所です。イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに上り、神殿での過ぎ越しの祭りに参加されます。そこでイエスは、神殿に集まってきた商人たちが、犠牲の牛や羊や鳩を売っている様子、神殿に献金するための両替をしている有様をごらんになりました。そのときイエスは何を思ったか、縄で作った鞭を振り回して、その商人たちを追い払われます。そして「ここはわたしの父である神の家だ。それを商売の家としてはいけない」と言われます。
よく考えてみると、彼ら商人たちも、神殿で必要とされる商売をしていたわけで、彼らがしていたのは正当な営業でした。間違ったことをしていたわけではありません。だからイエスがやったことは、不当な営業妨害で、今だったら訴えられてもおかしくないことです。なぜイエスはそんな、暴力をふるうようなまねをしたのでしょうか。
それは、そこがほかならない神殿だったからです。弟子たちも考えたように、神殿に対するイエスの熱意がそうさせたのです。考えてみれば、神殿とは、日常の場所と違って、神と接するための場所です。そのような特別の場所として、日常人間が生活のために、周りの人々との関係で忙しく立ち働くようなところとは違う、神聖な空間でなければなりません。そのような神殿と宗教の本来の姿を見失って、単なる形式的な儀式で良しとするような風潮に流されてしまっているあり方に、イエスは警鐘を鳴らしたのだと考えられます。
つまりイエスが行ったこととは、宗教や神殿や教会が、形式的な儀式だけのものとなり、中身が空洞化することに対して、警告を発するということでした。
そう考えてくると、この「宮浄め」の出来事は、宗教改革の意義と共通していることが分かります。宗教改革もまた、その当時宗教としてのいのちを見失って、単なる形式的な儀式だけのものとなってしまっていた教会に、本来の、生き生きしたいのちにあふれる姿を取り戻させようとして起こってきたものだったからです。
しかし今のわたしたちは、イエスやルターとは違って、いのちをかけて激しく抵抗すべき問題に直面してはいません。教会はだいたいのところ世の中に受け入れられていて、ローマ時代や江戸時代のような迫害を受ける心配はありません。また自分たちの内部でも、どうしても変わらなければやっていけないような、大きな問題を抱えているわけでもありません。
むしろ今のわたしたちにとって問題は、そういう大きな問題が見えないというところにあるのかもしれません。世の中の流れに流されて、自分でも気がつかない内に生活が空虚となり、本来の生き生きとしたいのちのあり方を見失っているのかもしれません。
幸いなことにわたしたちは、それぞれが一人一人かけがえのない存在であり、それぞれが一人一人の「わたし」として生きています。このそれぞれの「わたし」に立ち返えることは、いつどのような時代でもできることです。そしてその「わたし」に立ち返り、この「わたし」がそれ自体としては一人であり、周りとは切り離されて存在していながら、しかしこの「わたし」にイエスは、同伴者としてともにいてくださいます。そして復活のキリストとともに人々の間によみがえらせてくださることを、わたしたちが経験するとき、わたしたちは本来のいのちとして人々の間で活動するようになります。
今日の聖書で、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」とありますが、同時に、わたしのたちの体も復活したキリストの体の一部であり、わたしたち自身が、聖霊の宿っている神殿なのです。
祈ります。神さま。わたしたちがキリストとつながることによって、人々と共に生きるものとしてください。イエス・キリストによって祈ります。