2013年8月18日の説教です。
説教「親があっても子は育つ」
ルカによる福音書13:46-51
今日の説教題として選んだのは、「親があっても、子は育つ」というのです。ちょっとヘンかもしれません。「親はなくても子は育つ」だったらよくある言葉で、よく使われることわざですが。この、「親はあっても子は育つ」というのは、坂口安吾の、「不良少年とキリスト」というエッセイの中にあった言葉です。このエッセイは、太宰治が死んだときに、それをきっかけとして彼の文学と人生について書いたもので、彼をよく知っていた者として、太宰について自由に書き綴った、おもしろい作品です。坂口安吾によると、「太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった」、そして、「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」と言っています。親は、子供が生きていくのに必要不可欠な存在だとも言えますが、しかし、親が子供をだめにしている、親がなかった方が子供はもっとましな人間に育っただろうとも言えるでしょう。わたしにとってもそうですが、家庭は、育ててもらって感謝すべきであると同時に、呪うべき存在でもある、そういう考えを持っている人も多いのではないでしょうか。理想的な親なんてそうはいないでしょうから。
さて今日の福音書は、とても短いのですが、いろいろなことを考えさせられます。まずイエスが来たことによって、家族の間に分裂が起こるという点です。「あなた方は、わたしが平和をもたらすために来たと思っているが、むしろわたしのために分裂が起こる」と言われています。父と子、母と娘、姑と嫁の間で、分裂といさかいが起こると言われます。しかしイエスは、他のところでは、わたしはあなたたちに平和を残していくと言われました。それと、今日の話とは矛盾しないでしょうか。イエスがわたしたちの間に残していくと言われる平和と、イエスの到来によって引き起こされる分裂とは、どう関係しているのでしょうか。
しかし考えてみれば、イエスがべつに来なくても、親子兄弟の間や、一族の間で、分裂と争いが起こるというのは、よく見られることではないでしょうか。むしろ、一家仲良く、平和に暮らしているという家族の方が例外で、珍しいのかもしれません。よく日本の宗教は御利益宗教だと言われますが、その願い求めている御利益というのも、家族がみな仲良く、健康で、一家の商売が繁盛するということに尽きるようです。ということは、それを祈り求めなければならないほど、現実はそれとは反対で、家族の中での一致と平和は、なかなか実現しにくいということでしょう。子供にとっては、親は、自分の成長を邪魔して、伸びる芽をつぶすことしかしないというように見えるかもしれないし、親にとっては、「親の心子知らず」で、子供は全くやっかなお荷物で、自分の思い通りにならない存在と見えるかもしれません。こういうように、元々親子兄弟が分裂し、相争っているのだとすれば、イエスはそこに何をもたらそうというのでしょうか。
イエスは人類に、それ以前にはあり得なかった全く新しいものをもたらすために、この世にこられました。それは今日の福音書に、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」の述べていることから明らかです。それはいまだに地上では燃えていない火であって、イエスがすでに燃えていたらと強く願っていても、イエスが来るまでは実現しない、そういう新しいものなのです。そしてその新しいものが、古い人類と新しい人類とを分けて、その二つの間に分裂をもたらす、というわけです。そのイエスがもたらす地上の火とはいったい何なのか、それはわたしたちに何を引き起こすことになるのか。そのことについて、思いを巡らしてみましょう。
さっきから考えている親と子の関係について、また親族との関係について、例を挙げて考えてみたいと思います。その例として取り上げたいのは、例のアブラハムの場合です。 アブラハムは生まれ育った一族を離れ、一人の道をたどることになりました。それは人間的ないろいろな事情もあったかもしれません。家庭不和とか、不遇な境遇から独立して、新天地を自ら開拓したいとか、そんな事情もあったかもしれません。しかし、そこに神という、家庭の力を超えた力が働いていたということを考えなければならないと思います。
一族とか家庭とかは、人間の生存条件として欠かすことができないもので、いわば人間を縛る引力のようなものとして働くと言えるでしょう。その引力は、よく言えば「絆」とも表現できますが、人間を家庭に縛り付ける「縛り」とも言えます。しかし、その家庭の引力に打ち勝って、もっと人類全体のために、自分を捧げて貢献したいという欲求も働き始めます。いわば、一族の縛りや家族の絆を振り切って、その引力圏から飛び出させる力が働くようになります。それが、アブラハムに呼びかけた神の声というわけです。そのようにして、一族とも家族とも離れて、アブラハムは、カナンという見知らぬ土地で苦労に苦労を重ねて、ようやく小さな自分の土地と財産、家族と仲間を持つことができました。
しかしアブラハムには、年をとって高齢になっても、まだ一つの大きな悩みごとがありました。それは、自分の土地と財産を継がせるべき子供がないということでした。正式の妻であるサラも、もう年をとっていて、子供ができる望みはなかった。子供がなかったら、苦労に苦労を重ねて築き上げてきたこの自分の家は、自分限りで終わりとなり、この地で自分の一族を確立し、繁栄した家として、代々引き継がせるという望みは叶えられなくなる。
こういう絶望的な状況でも、アブラハムは神を信じ続けました。その結果、生物としての人間にはあり得ない奇跡が起こり、超高齢のサラから、アブラハムの後継者イサクが生まれました。こうして人生の最晩年において、神の約束は実現し、アブラハムは安らかな生涯を終えるかに見えました。しかし彼にとって、それで話が終わったわけではありませんでした。
一生の最後、満ち足りた成功者として生涯を終えようとしていたアブラハムに、神は、思いがけない命令を下します。最愛の息子、彼の望みの綱とも言えるイサクを、神への犠牲として捧げるように、神は命じます。このイサクをアブラハムは溺愛していました。もしイサクが死んで、いなくなってしまうなら、アブラハムの一生も無意味な徒労にすぎないことになる。こうしてアブラハムは、神とイサクとの間で、どちらを選ぶかの決断を迫られます。一生が空しい徒労に終わったとしても、神の命令に従うべきか、それても神の命令を無視して、人間的な愛情の絆にしがみつくべきか。究極の選択の前に立たされて、アブラハムは、それでも神に従うことへと決断します。
このアブラハムの、イサクを犠牲にして、自分の一生を棒に振っても、神の命令に従うという信仰の決断のために、彼は信仰の父としてたたえられることになりました。このイサク奉献の物語は、アブラハムの一生におけるクライマックスというだけではなく、人類の歴史における頂点の一つと言えるでしょう。そしてこのイサクを神に捧げるという物語は、イエスの十字架の出来事と対をなしているもののように思われます。
ここでもう一度、今日の福音書を見てみましょう。イエスは言われます。わたしは地上に火を投ずるために来た。その火はまだ地上では燃えてはいない。わたしは、そのために受けねばならないバプテスマがある。わたしはそのためにどんなに苦しむことだろう、と。このイエスが引き受けなければならないバプテスマ、洗礼とは、もちろん十字架のことです。イエスの十字架の意味とは、地上に火を点じて、人々を新しくすること、聖霊の支配をもたらすことなのです。しかし、そのためにイエスがひどく苦しむという、この十字架、聖霊の働きを地上にもたらして、人々の心を新しく作り替える十字架は、いったい何を意味するのでしょうか。イエスの十字架によって、何が変わるというのでしょうか。
さっき、イサク奉献の物語と、イエスの十字架は対になっていると言いました。そのことについてもう少し詳しく話すことで、イエズの十字架の意味を明らかにできるように思います。
アブラハムのイサク奉献の場合、神はどこにいるのでしょうか。神は上にいて、アブラハムの信仰を試しているようにも見えます。最愛の息子イサクを捧げよと、理不尽な要求を突きつけ、追い詰める暴君のようにも見えませんか。アブラハムにとっては、神は、不可能なことを要求し、信仰の決断を迫るものであって、アブラハムは、究極的な試練に耐えて、信仰を貫き通す、信仰の英雄です。しかし、こうした英雄的な信仰は、大多数の人間にとって不可能なもので、このような信仰が必要とされるならば、誰も神に近づくことはできません。アブラハムの場合、信仰の決断は人間の前に置かれていて、人間がそれを乗り越えて、神へと上っていくべきものと考えられます。
一方、イエスの場合、神自らが、人間のもとへ下っていく決断をするものとなります。イエスの十字架とは、人間のために、人間とともにあるために、人間のもとへ下っていく、神の側での決断を現わします。だからこの場合、決断は人間の前に置かれているのではなく、人間はいわば、すでに人間のために神がなした決断の後に置かれていて、その神の決断をただ受け入れるべきものとなります。つまり、人間は、十字架を神の決断として受け入れることだけが求められます。それは人間が、神によって無条件に受け入れられ、義と認められ、赦され、生かされていることを、受け入れるということで、そういう意味での信仰を求められるということです。だからわたしたちの信仰は、神によってわたしたちが受け入れられていることを、受け入れるということを意味します。このわたしたちを受け入れるという神の決断が、つまりイエスの十字架にほかなりません。
そしてこの、神がわたしたちを受け入れているということを、わたしたちが受け入れるという信仰は、わたしたちのあり方を変えます。神がわたしたちを受け入れておられることを、わたしたちが自分のこととして認めるならば、わたしたちはただ神の愛を信ずることだけが必要となり、それ以外に何も必要なものはないことになります。だとすれば、わたしたちがこの世に生きるのは、信仰のない場合には生き続けるのに必要不可欠と思われるものが、必ずしもなくてはならない、人を縛り付けるようなものではなくなり、この世における自由な主人として、自由に、人のために仕えることができるようになります。
家庭における分裂と争いは、お互いに自己にとって必要不可欠と思われることについて主張し合い、その主張が相容れないことから起こってきます。しかしイエスがもたらす新しいあり方は、そのような分裂を超えたところで生きることを可能とします。だからイエスがもたらす分裂は、古い生き方と新しい生き方の違いから来る生き方の違いであり、古いあり方に生きるものには理解しがたいとしても、満たされた心と、失われることのない平安をもたらします。
祈ります。わたしたちに信仰を与えて、心の平安と、人々のための新しい生き方ができるようにさせてください。 主イエス・キリストによって祈ります。