説教「復活・永遠の光」 ルカによる福音書24:31-43
わたしたちは今復活について考える季節にいます。
しかし復活というのは、毎年繰り返される年中行事の一つでしょうか。わたしたちは毎年新年を迎え、春・夏・秋・冬を迎え、その時々の行事や祭りを行います。復活というのは、そういう、わたしたちが生きて過ごしている時間の中で繰り返され、そしてその時々で失われ、忘れ去られるような、そのような出来事なのでしょうか。言い換えれば、復活というのは、時の中の出来事の一つなのでしょうか。
むしろ復活というのは、時を超えた出来事なのではないでしょうか。それは時の中に現れるけれども、しかし時を超えた永遠の出来事であって、われわれの人生が全体として、何を意味しているのかを告げてくれるものなのでしょう。
さて今日の福音書は、先週のエマオで起こった出来事の続きで、今度は弟子たちの間に復活のイエスが現れたという話です。
エマオに行く途中、復活されたイエスに出会ったとき、二人の弟子たちはエマオに下っていくのを止めて、エルサレムに急いで引き返します。そして集まっていた弟子たちに、自分たちの体験を伝えたところ、弟子たちのリーダー格のペトロにもイエスが現れられたことが分かります。そうしたことをいろいろ語り合っていると、今度はその弟子たちの真ん中に、イエスが出現してきます。彼らはユダヤ人たちを恐れて、門に鍵をしっかり掛けていた、というのはヨハネによる福音書が語っています。
そこで彼らは、突然のイエスの出現に、あわてふためき、恐れおののきます。鍵も掛けていたのに入ってくるとは、きっと幽霊に違いないと。
そこでイエスは、彼らの不信仰を責めて、しかりつけられます。「なぜうろたえているのか。わたしが復活したことについては、何度も話を聞いているはずだし、現にあなたたちの目の前に現れているのに、何で信じられないのか」と。そして、イエスは、ご自分が亡霊などではなく、血肉を備えた存在であることを、そのようなものとして復活されたことを、弟子たちに示そうとされます。「わたしの手と足を見なさい。わたしの体を触ってよく確かめなさい」と。そしてさらに、まだ信じられず不思議に思っている弟子たちに対して、焼いた魚を食べてみせることまでされます。
そのことでイエスが示されたのは、復活というのはただ心の中の観念とか、思想とかではなく、現実だということでした。わたしたちがこの世に体を備えて生きているのと同じような、観念とか思想とかによって否定することのできない現実だということです。
しかし同時に、このような現実としての復活ということ、復活が現実に起こるということは、わたしたちがこの世界で経験できることを超えているのも確かです。だからわたしたちが復活ということを受け入れることができるためには、見たり聞いたりすることだけに頼っていては不可能です。
しかしなぜそのような、見たり聞いたりできる世界を超えている、復活ということを、わたしたちが信じなけれはならないのでしょうか。信じられないとして否定するのではなく、信ずるべきこと、その信仰なしにはわたしたちが完全に生きることのできないこととして、受け入れなければならないのか、よく考えてみなければならないでしょう。
復活のイエスの体に触るということと、復活を信じ、受け入れるということとの関係を、もう少し具体例を挙げて考えてみましょう。
復活ということは一方では、目に見えない、手で触れられない、単なる頭の中だけにある観念、あるいは幻や幽霊のようなものでもありません。それは目で見え、手で触れられる、確固とした体を備えた現実です。今日の福音書が語ろうとしているのは、まさにそのようなことです。信じることのできない弟子たちに対して、イエスは、ご自分の体を示して、手で見て触って確かめなさい、と言われます。大事なことは、目で見、手で触って、復活ということを事実として実感することでした。
同じことは、ディディモと呼ばれるトマスについても言えます。トマスが「わたしは自分の手でイエスの体に触れ、その傷跡に手を差し入れてみない限り信じない」と言ったのに対して、イエスがトマスに現れられて、「あなたの指でわたしを触り、わたしの傷跡に手を差し入れてみなさい」と言われます。そこでトマスは復活のイエスを信じるようになりました。このときにもイエスは、信じない弟子たちに対して、自分の体を指し示して、体に触れることによってご自分の復活を実感できるようにされます。弟子たちは、イエスの体に触ることによって、復活が事実起こったことを信ずるようになりました。
しかし同時にイエスは、トマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。しかし見ないままで信ずることができれば、それは幸いだ」とも言われました。
今わたしたちは、弟子たちとは違って、イエスの体を目で見たり、手で触ったりすることはできません。わたしたちは「見ないで信ずる」ものとならなければなりません。見ないで信じ、しかも、復活のイエスをありありと、わたしたちの心と体で現実のものとして感じなければなりません。それには、復活を信ずるというのはどういうことか、それがなぜ必要なのか、それはわたしたちにとって何を意味するのかをよく考えてみなければならないでしょう。
今日の福音書によると、信じない弟子たちに対して、イエスがご自分の体を示して、復活を信じさせられたとうことでした。しかし、目で見たり、手で触ったりすることが、必ずしも復活を信ずることには結びつかないというのも事実です。
目で見たり、手で触ったりできないものは、存在しないと普通わたしたちは考えるし、逆に、目で見たり、手で触ったりできるものは、わたしたちが普通に経験できる世界の中にあるとも考えます。だから復活という、この世界を超えたものの存在は、普通に見たり触ったりできる世界だけをよりどころとし、基準としている限りつまずきとなります。
そのことを考える手がかりとして、パウロが語っていることについて考えてみましょう。パウロは言います。わたしたちが今見たり聞いたりしている世界は、来るべき世界に比べれば、部分的で不完全なものだ、と。完全なものが現れるときには、今あるものは部分的なもの、不完全なものとして廃れてしまうだろう。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになると。
実際、わたしたちが見たり聞いたり、感じたり考えたりすることがらは、絶対確実なこととはほど遠いものではないでしょうか。わたしたちはそれぞれ一人一人、自分の立場から見たり聞いたり、考えたりしていて、それ以外のあり方をできません。ということは、わたしたちの見たり聞いたり、感じたりすることは全て相対的なもので、自分以外の人なら、違うものの見方や感じ方をしているはずです。だからパウロは、わたしたちが今見たり聞いたりしているものは、部分的で不完全なもので、確実なもの絶対的なものではないと言っているのでしょう。
このようにわたしたちは、常に部分的で不完全なままで、生きている限り確実なものに何一つ到達することもなく、その時々に流されながら、やがて決して長くはない一生を終わる。それが全てなのだろうか、それがわたしたちの生きることの全てなのだろうか。そのような思いに駆られることのない人はまれではないでしょうか。
わたしはあるとき、病室のベッドの中で考えていました。入院してからしばらく立ってからのことです。消灯してから灯りの無くなった、暗い病室の中で、眠れないまま横になっていると、ある恐ろしい考えに脅かされました。それは、わたしが亡くなってしまった後何が起きるのかということでした。このような真っ暗な中、ひとりぼっちで、永遠に閉じ込められるとしたら、どうだろう。それは恐ろしい恐怖ではないだろうか、と。
しかしやがて、わたしはそれが間違っている考えではないかと思い始めました。この暗闇を見ているのはこの自分で、この自分というものは、死んだ後も存在し続けるのか。
わたしは入院したときに、自分の脳のCTスキャンの画像を見せられましたが、自分の心と身体の異常が脳のどの部分から起きているのかを、医者がその写真を見せながら説明してくれました。ということは、自分が死んでなくなってしまったとき、わたしの脳というものもなくなってしまうわけで、その脳の働きである目で見るとか、感じるとかいうこともなくなるのではないか。だから、自分が死んだ後、自分が、暗い世界の中にひとりぼっちで閉じ込められるということも、経験できることではないな、何しろそういうことを経験する脳がそもそももう存在しないのだから。
しかし、自分の死を自分が経験できないということ、それが一切の終わりということで、それでいいのだろうかと、また考え始めたのです。自分の小さな経験でさえ、死んだ後には無に帰してしまい、一切何もなくなってしまう。果たしてそれでよいのだろうか。
むしろ、神が、わたしたちとともにいてくださり、わたしたちの小さな存在を、その永遠の光の国へと引き受けてくださる。何一つ失われることもなく、何一つ不完全なままに放棄されることもない。全てが神の国へと吸収され、永遠の完成へと引き上げられる。その方があるべき姿であり、望ましいことであり、信ずべきことではないか、そのように思い始めたのです。
神はその愛のゆえに、イエス・キリストというかたちでわれわれと共に歩まれ、われわれの悲惨の運命を自らに引き受けられました。それがキリストの十字架ということです。しかし、神はその愛のゆえに、キリストの十字架を悲惨な敗北の死という結末に任せられることなく、敗北の死を勝利の復活へと変えられました。それは神が、その愛の力のゆえに、わたしたちを死と敗北と消滅という悲惨な運命から救い出し、キリストとともに、永遠の祝福の光の中へ受け入れるためでした。だから、キリストの十字架はわたしたちへの神の愛を示し、キリストの復活は、その愛の力を現わしているのです。
パウロは次のように言っています。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
わたしたちはキリストの復活を信ずるならば、永遠の祝福の光の中にわたしたち自身がいることを知るでしょう。
祈ります。わたしたちが復活を信じて、失われることのない、永遠の明るさの中に生きることができるようにしてください。イエス・キリストによって祈ります。