太宰治についてずいぶん長く考えている。
彼は小説家と言うより、「語り手」という方が適切なようだ。
しかも彼は私生活においても「語り手」であり、その語りにおいていろいろな人を彼の人生の中に巻き込んでいる。
というより彼は自分の「語り」の中に、自分自身の人生を巻き込ませてしまうということになっている。
言い換えれば彼は自己の人生を「小説化」している。

こういう小説における「語り」と、私生活における「語り」とがあまり近すぎて、同調・同一化するところに、「人間失格」の主人公の運命や、「斜陽」の中に登場する「小説家」の運命と、作者自身の運命がオーバーラップしてくる原因があるのではないだろうか。
逆にその作品と作家の近さのゆえに、その影響力もあるということなのかもしれない。
それはその作品が作家に近いという「私小説」的な意味ではなく、むしろその作品に作家が近いという、なんというか、作家の「作品化」の故だというような気がする。