数学の物理学への応用可能性について書いていて思い出したことがある。
 昔、落合仁司さんの『〈神〉の証明――なぜ宗教は成り立つか』(講談社現代新書)という本を読んだことがあった。これは彼のいわゆる「数理神学」の解説書で、カントールから始まる無限集合論を、三位一体とかキリスト論とかの、キリスト教の「分け分からない」教義を、ある意味合理的に理解するのに応用するという代物だった。
 数学をキリスト教の教義の理解に応用するというのは、ちょっとおもしろいと思ったし、落合さんが研究している東方正教会の伝統からは、そういう哲学的・論理学的なキリスト教理解もあり得ることかなと思った。
 しかし無限集合論そのものが、カントールの頭脳を狂わせたような矛盾・逆説に満ちたものだとすれば、それをもってもう一つの、人間イエスが神の子キリストであるというキリスト教の逆説を合理的に理解しようというのは、分かったような気にさせて、実は真相から遠ざからせるような詭弁に過ぎないのかもしれない、とも感じた。
 イエス(キリスト)の逆説に直面した者の正直な反応、すなわち驚きと畏怖とは、パスカルやキルケゴールやドストエフスキーのそれと同様に、「合理化」によって弱められずに「持ちこたえられ」なければならないものではないだろうか。