1966年公開のマカロニ・ウェスタンです。

 南北戦争中のアメリカを舞台に、横領された20万ドルの金貨の行方をめぐって、善玉、悪玉、無頼漢の三人のガンマンが、時にはくっついたり、また離れたりしながら冒険します。

 金貨探しやガンファイトだけでなく、南北戦争の悲惨さも描いていて、壮大なスケールの映画です。

 監督はマカロニ・ウェスタンの第一人者のセルジオ・レオーネで、おなじみのエンニオ・モリコーネの音楽も有名です。

 善玉役のクリント・イーストウッドはもちろんかっこいいのですが、悪玉役のリー・ウ゛ァン・クリーフと無頼漢役のイーライ・ウォラックもさすがの存在感を見せています。

 

 

 

 直木賞も取った著者の人気シリーズ(関連する記事を参照してください)の一作です。

 これも完全な勧善懲悪ストーリー(かなり単純な法廷闘争によるものです)なので、著者のファンは安心して読めます。

 ただし、露骨な連作化の伏線(主人公の会社の経理部長が会社を辞めて農家を継ぐことになる、主人公が救済した会社の社長がかつて職を追われた大会社に復讐するなど)が最後まで回収されないので、著者のファン(出来不出来に関係なく本を買う人)以外の読者には、かなり興ざめです。

 

 

 

 1993年公開のアメリカ映画です。

 当時の世界での興行収益の記録を作ったスピルバーグ監督の大ヒット作です。

 従来の特撮映画で使われていたアニマトロニクスと、実用化が始まっったばかりのCG技術をうまく融合して、太古の恐竜たちを現代のスクリーンに出現させました。

 マイケル・クライトンの原作は、最先端の科学技術やビジネスと、フィクションを合成したかなり複雑な小説(文庫本で二冊分)なのですが、そのエッセンスを活かしつつ、一級のエンターテインメントに仕上げています。

 ティラノザウルスやヴェロキラプトル(この映画で有名になりました)の登場シーンの迫力も素晴らしいのですが、「ジョーズ」でも発揮されたまだ恐竜が見えないシーンの描き方(コップや水たまりが震える、鼻息で窓が曇る、影が映るなど)が秀逸で、観客に恐怖感と期待感(怖いもの見たさ)を盛り上げます。

 

 

 

 1997年公開のアメリカ映画です。

 大ヒットした「ジュラシック・パーク」(その記事を参照してください)の続編で、監督も同じスピルバーグなのですが、信じられないような駄作です。

 マイケル・クライトンの同名の小説とは、まったく別個に作られたせいか、ストーリーは支離滅裂でむやみに長く、登場人物もまるで魅力がなく、馬鹿じゃないかと思える行動の連発なので、誰にも加担して見ることができません。

 スピルバーグでも、時々、この作品や「1941」のような失敗作を作ることがあるので、油断はできません。

 

 

 

 1987年に公開されたアメリカのファンタジー映画です。
 再開発のための地上げ屋に苦しめられている古いアパート(一階は食堂)の住人たちと、どこかから現れたUFO型の金属の生命体(電気エネルギーで動きます)との心温まる交流を描いています。
 ストーリー自体は典型的なハッピエンディングの他愛のないものなのですが、住人たちだけでなく地上げ屋までもが憎めないキャラですし、UFO型生命体がすごく愛らしいので。ファミリーで楽しめる作品に仕上がっています。
 特撮技術は非常に初歩的なものですが、そこがかえって手作り感満載で魅力的です。
 

 2013年公開のインド映画です。

 偶然、違う人にお弁当が配達(インドのムンバイでは、家庭から職場へお弁当を配達人に届けさせるシステムがあるようです)されたことによる、初老の男と若い主婦の淡い恋愛(主に弁当箱に入れた手紙のやりとりによるものです)を描いています。

 男はかなり前に妻を亡くして孤独ですし、近々仕事も早期退職する予定です。

 主婦は、仕事人間の夫(どうやら浮気をしているようです)に相手にされずに孤独です。

 孤独な同士が引かれ会うのですが、初めて会う時に男が勇気がでずに見送ってしまいます。

 彼女が若くて綺麗なのに比較して、自分が老いていることを自覚してしまったからです。

 男に会えないことに絶望した主婦は、今の生活を捨てて娘とブータン(物価が安く幸福度が高いことはインドでも有名なようです)へ移住することを決意します。

 男は、ようやく勇気を振り絞って、弁当配達システムのルートを遡って彼女を探します。

 映画は、はっきりした結末を見せないままで、そこで終わります。

 現代の日本人の感覚ではなんとももどかしいラストなのですが、現在のインドで男女関係を描くのはこれが限界なのかも知れません。

 

 

 

 

 男は

 

 2014年の日本映画です。

 前作の大ヒットを受けて、スケールアップ(ブルガリアに巨大なセットを作り、現地の人を大量に出演させたので、ローマらしさは格段に上がりました)した続編です。

 しかし、肝心のお風呂に関する部分がネタ切れ気味で、無理に笑いをとろうとしています。

 また、それ以外のストーリーが長いので、かなりだれます。

 それでも、主演の阿部寛と、相手役の上戸彩は、相変わらず魅力的です。

 

 

 

 ホテルの伯爵夫人の部屋から盗まれた宝石の行方を、些細な手がかりからホームズが探り当てます。

 推理小説としての出来はイマイチですが、19世紀のロンドンの雰囲気を再現した映像は、いつみても素晴らしいです。

 

 

 

 

1.不思議な駄菓子屋(起、60行)
1-1.主人公の女の子は泳げないので、水泳の授業が憂鬱(14行)
1-2.学校帰りに、見たことのない駄菓子屋に出会う(19行)
1-3.ふしぎ駄菓子屋の様子(15行)
1-4.店主の紅子が登場(12行) 

2.「型ぬき人魚グミ」(承、52行)
2-1.泳げるようになりたいという望みをかなえるという「型抜き人魚グミ」(12行) 
2-2.持っていた昭和四十二年の十円で、「型抜き人魚グミ」を手に入れる(13行)
2-3.家に帰って、説明書通りに人魚グミを作る(15行)
2-4.人魚グミを食べると、すごくおいしかった(12行)

3.人魚に変身する(転、67行)
3-1.望み以上に泳げるようになる(16行)
3-2.うろこが生えてきたので、驚いて学校から逃げ出す(23行)
3-3.人魚グミのせい?(14行)
3-4.注意事項を守らなかったので人魚化している(14行)

4.「型ぬき人間グミ」で人間に戻る(結、63行)
4-1.元の人間に戻る(?)ための「型ぬき人間グミ」(11行)
4-2.「型ぬき人間グミ」を作る(13行)
4-3.おかあさんが帰ってきたので、完成を待ちきれずに食べてしまう(20行)
4-4.時間が足りなかったせいか、人間には戻ったが、水泳は得意になった(19行)

以上のように、起承転結のそれぞれが、さらに細かい単位で起承転結になっていて、読者の興味をつなぐような構造になっています。最小単位のそれぞれは、ほとんどが原稿用紙二枚以内で短くまとまっています。

 

 

 

 1970年に出版された幼年文学の古典です。
 カミイは、仲良しの幼稚園児(ももぐみさんです)のたけしとようこが、ダンボールで作ったロボット(紙で作ったのでカミイという名前も、ベタな子どもらしいネーミングです)です。
 鋼鉄製(本人はそう思っている)のロボットのカミイは、力持ちで世界一強いはずなのですが、実は紙でできているので水に弱い(泣き虫なので自分の涙にも弱い)のです。
 カミイはわがままでいばりんぼなので、二人と一緒に行った幼稚園でも問題ばかりおこします。
 幼稚園児にとっての、自分よりもわがままで困った存在、そう、カミイはみんなの弟のようなものなのです。
 カミイとの行動を通して、お話の中の子どもたち(男の子と女の子のダブル主役なので、男の子読者も女の子読者も自分を主役にできます)も、そして読者の子どもたちも、自分の成長(おにいさんやおねえさんになったような気持ちになれます)を確認できることが、この作品の一番の魅力でしょう。
 それに、園内の小さな世界にとどまらず、みんなを助けるためにダンプカーにひかれて死んだカミイが、たけしとようこが破れたりしたところを補修するだけであっさりと復活して、最後はみんながダンボールで作ったチビゾウに乗ってロボットの国へ帰るというダイナミックなストーリーも備えています。
 作者は、実際に幼稚園に取材をしたり、教育実践を参考にしたりして、作品の幼稚園生活(書かれてから五十年以上がたち、さすがに現在の幼稚園の実態にそぐわない個所もありますし、作品のジェンダー観(男の子と女の子の役割の固定化など)も古くなっていますが)にリアリティを持たせ、実際の園児たちの反応を確かめながら作品を膨らませています。
 作者の評論(特に初期のもの)は抽象的で難解なことが多く、高学年向きの作品には理が勝っている作品(「宿題引受け株式会社」(その記事を参照してください)など)もあるのですが、むしろ幼年文学(「おしいれのぼうけん」(その記事を参照してください)など)の方に生き生きとした優れた作品が多いように感じます。