1957年公開のアメリカ映画です。

 1927年に、初めてニューヨークとパリの間を飛行機で無着陸で横断したチャールズ・リンドバーグの著書を、精密な再現機を何台も作って撮影して映画化したものです。

 実際の横断飛行だけでは単調過ぎてしまうので、それは全体の三分の一ぐらいに留めて、この飛行に至るまでの主人公の苦闘の方に多くの時間を割き、飛行中にも回想シーンを入れて観客を飽きさせない工夫を、名匠ビリー・ワイルダー監督が駆使して、感動のドラマに仕立てています。

 原作の有名なエピソード(頭上の機器を見るために用意された鏡が重すぎたので見送りの観衆の中にいた少女のコンパクトを借りた、親友が用意したサンドイッチの袋の中に彼の飛行教室の生徒である神父が託したお守りが忍ばせてあった、機内に迷い込んだハエとの会話、睡魔との戦い、機体への着氷との戦い、飛行する方向の確認の苦労、大西洋を横断して予定通りにアイルランドの陸地を発見するシーンなど)も、巧に織り交ぜていて、観客を感動させてくれます。

 特に、パリ到着時に若き英雄を一目見ようとして押しかけた数十万の群集や、帰国後のニューヨークでの数百万の人々の歓迎シーンには、実際のニュース映画なども使われていて、当時の熱狂ぶりを再現しています。

 現代から見れば、大西洋横断なんてたいしたことないと思われるかもしれませんが、なにしろ1903年のライト兄弟の初飛行(諸説ありますが)以来、まだ20年ちょっとしかたっていなかったころのことですから、ちょっと大袈裟にいえばアポロによる月着陸のような大冒険(直前に挑んだ人たちが失敗して何人も命を落としています)だったのです。

 横断飛行成功時に25才だったリンドバーグを演じたのは、当時47才だったジェームス・スチュワートだったので、評価には賛否両論があったようですが、ダイエットによる若々しいスタイルと彼独特の軽やかな演技は、アメリカの好人物を演じる俳優の第一人者だけのことはあります。

 なお、「翼よ!あれが巴里の灯だ」というかっこいい邦題は、映画では台詞としても使われておらず、原題は彼の冒険を支援したセントルイスの人々にちなんで愛機につけられたThe Spilit of St. Louisという原作の題名と同じものでした。

 

 

 

 サリンジャーにとっては最初の中編小説(1947年作)ですが、その完成度については評価が分かれており、雑誌には発表したものの単行本としての出版を許さなかったことから考えると、サリンジャー自身もこの作品を一種の習作として位置づけていたのかもしれません。
 主人公は、ドイツ貴族の血を引く裕福な家庭に育った、才色兼備(長身の美人で、万能なルポライター兼編集者で、秀逸な演劇評論家でもあります)の30歳の女性です。
 彼女が、子ども時代に離れ離れになった初恋の相手が天才的な詩人になっていたことを知って有頂天になり、再会してからわずか四か月で結婚し、結婚してからわずか数週間で、突然やってきた自称20歳の女子大生(実際は30代半ばの人妻で、11歳の子どもがいます)に、彼女の世間知らずの隙を突かれて駆け落ちされてしまいます。
 詩人と結婚する前に、一番親しい男友達(この話の語り手で、かつて彼女にプロポーズしてふられたことがあります)が、彼の精神的な問題(詩に関しては天才的ですが、不幸な生い立ちとあまりに詩作に没頭したためか、社会性に大きな問題を抱えています)を見抜いて結婚しないように忠告したのですが、彼に夢中になっていた主人公は耳を貸しませんでした。
 この作品を、サリンジャー自身の隠遁生活(1953年から2010年に91歳で亡くなるまで)と結びつける批評が多いのですが、少なくともこの作品においては、世俗的な生活とそれを排した芸術至上主義的な生活に対してはニュートラルなポジションで書かれています。
 ゴージャスな暮らしをしている主人公に対しても、彼女を捨てて貧窮している詩人に対しても、フェアな視線で作品を書くことはなかなか難しいものです(どちらかに、過度に批判的になってしまうことが多いです)。
 詩人が、対等な男女関係(これは作品の時代設定になっている1937年では、アメリカでもかなり新しい考え方だと思います。彼女は単なる大金持ちの御嬢さんではなく、当時の言葉で言えば有能な職業婦人でもあります)を求めている主人公を捨てて、自分を支配してくれる下品だが生活力がありそうな女性と駆け落ちしたのは、彼の母親(駆け落ち相手と同じタイプ)とそれに従わされていた少年時代の影響と短絡的に結びつける批評が多いのですが、その観点で見たらあまりうまく書けていないと思われます。
 母親が粗野で詩人を従わせていたことは書かれていますが、それに対して少年時代の彼は一定の精神的な距離感を持っていたように思えます。
 はっきりいって、詩人になった30歳の彼よりも、少年時代の彼の方がはるかに魅力的で、主人公の初恋相手としてふさわしい存在でした。
 また、駆け落ち相手の女性も、自称20歳の彼女と正体を明らかにした後の中年女の彼女のギャップが大きすぎて、うまく人物像を結びません。
 しかし、ここで描かれた詩人の人物像は、その後のグラス家サーガの作品群に引き継がれてているので、そういった意味では重要な作品だとも思われます。
 児童文学的観点で見たこの作品の一番の魅力は、主人公と詩人の双方が、11歳の少年少女時代の二人の人物像と30歳の大人になった二人の人物像が、再会した時に二十年近くの時を超えて瞬時にしかもなめらかに結び付くことです。
 この感覚は、児童文学者の資質と非常に近い物があります。
 他の記事にも書きましたが、天性の児童文学者(例えば、エーリヒ・ケストナーや神沢利子など)は子ども時代の記憶や感覚を瞬時に取り出すことができます。
 これらの優れた作家と並べて書くのはおこがましいのですが、私自身も過去の記憶(特に、子ども時代と、息子たちが子どもだった時代が鮮明なのは、いろいろな理由で一番不幸だった時代と、一番幸せだった時代のせいかもしれません)を瞬時に取り出すことができます。
 この感覚は、他の人たちにはなかなか理解できないものなのかもしれません。
 古い友だちと何十年かぶりで再開した時に、すぐにその時代に戻ったような話し方をするので、「昨日別れたみたいだね」と必ず言われてしまいます。
 おそらく、サリンジャーも子ども時代の記憶や感覚を鮮明に覚えていて、それを作品の中に登場させているのでしょう。
 この感覚を持たない文芸評論家などの批評を読むと、まったくとんちんかんな大人感覚でそれらの子ども像を見ていることに気づかされます。
 もちろん、サリンジャーは児童文学者ではないのですが、常に子どもも含めた若い世代に関心を持って作品を書いていました。
 他の記事にも書きましたが、かつては日本でもサリンジャーの影響を受けたと思える児童文学作品が出版された時代もありました。
 児童文学に求めるものが、作者も出版社も読者も大きく変化した現在では、サリンジャー作品の世界観は、児童文学創作よりも子どもや若い世代が登場する一般文学の創作の参考になると思われます。

 

 




 



 

 10歳で霊的な能力(予言など)を持つ天才少年(どうやら6歳の妹も、同様の能力を持っているようです)の話です。
 彼の能力については、アメリカだけでなくヨーロッパでも有名になっていて、あちこちの大学の先生たちと議論するために渡欧して客船で帰米する途中でした。
 ここでも、船上のひなたっぼこ用のデッキチェアで、彼を訪ねてきたニコルソン教授と、感情、論理、瞑想、神、死、予言、転生、教育などについて議論します。
 そして、その中で、自分自身の死についても予言して、ラストでは実際に予言通りの事が起こったことが暗示されています。
 転生を信じているテディの死自体は悲劇でもなんでもないのですが、それよりも彼が悲劇的だったのは、前半部分での全く噛みあわない、そして、彼の事を理解しない(あるいは、理解しようとしない)で、彼を「人間じゃない」と思っている両親との会話でしょう。
 彼が自分の両親について語る以下の言葉は、どんな児童文学の作品よりも、両親に対する愛情と絶望が、痛切なほど満ち溢れています。
「あのふたりにはね、生きているあいだは楽しく暮らしてもらいたいと思うな、だってふたりとも、楽しく暮らすのが好きなんだもの……。だけど、あのふたりはぼくとブーバのこと――これ妹なんだけど――そんなふうに愛してくれてないや。つまり、ありのままのぼくらを愛することはできないみたいなんだね。たえずぼくらを少しずつ変えつづけることができないかぎりは、ぼくらを愛することはできないらしいんだね。ふたりとも、ぼくらを愛するのとおんなじくらい、ぼくらを愛する理由を愛しているんだし、たいていは、ぼくら以上に愛してる。(後略)」
 この作品では、芭蕉の俳句が引用されていることもあって、東洋思想と結びつけて考えられることが多いのですが、思想そのものはそんなに深い物ではなく(門外漢の私でも理解できる程度)、それよりは俳句の持つ「写生」の力にサリンジャーが強く魅かれていることが、非常に客観的で詳細な情景描写によく表れています。
 また、この「ナイン・ストーリーズ」という短編集が、シーモアの死で始まり(「バナナ魚にはもってこいの日」(その記事を参照してください))、テディの死で終わることで、サリンジャーと死について議論されることが多いのですが、サリンジャー自身は死自体(特に自殺)にはそれほど関心はなく(実際に91歳まで長生きしました)、「自分を理解しない他者」との関わりを断つ生き方(作品を対外的には発表せず、公の場には姿を見せない)の方が、はるかに彼らしいし、他者はどう思おうとそれで十分に幸せだったんだと思います。

 

 

 

 1965年に発表された、サリンジャーが公開した最後の作品です。
 いわゆるグラス家サーガのうちの一篇ですが、時代設定は一番古い1924年で、七人兄妹のうち下の二人はまだ生まれてもいません。
 私がサリンジャーを読み始めた1970年代初頭においても、まさかこの作品が最後だとは誰にも思われていなくて、「沈黙期間がいやに長いなあ」とか、「グラス家サーガのこれからの展開に苦戦しているのか?」とか、考えられていたように思います。
 しかし、今回、数十年ぶりにサリンジャーの作品を順に読み直してみると、この作品がグラス家サーガの最終作品であり、シーモァの遺書であると共に、サリンジャーの読者への惜別の書であることが強く感じられました。
 この作品では、1924年に当時7歳であったシーモァが、弟のバディと二人で参加していたサマーキャンプから、家族に宛てた非常に長い手紙(キャンプで怪我をして、ずっと一人でベッドに残されている時に書いた、という設定になっています)という形式をとっています。
 手紙には、全編、家族への愛が満ち溢れています。
 特に、二歳年下のバディ(この作品は、作家になったバディ(1965年当時46歳で、サリンジャーの分身だと言われています)がこの手書きだった手紙をタイプするという形で紹介されています)には、繰り返し最高級の賛辞を惜しまず、将来大作家になると予言しています(サリンジャー自身だと考えると、大ベストセラー作家になってしまった自分への皮肉だと考えることもできます)。
 両親(成功した芸能人(ボードビリアン)ペアで、母親は当時二十代の若さで引退を考えているようです)と兄妹(この当時、ズーイとフラニーはまだ生まれていないので、三歳年下の妹のブー=ブー、四歳年下の双子の弟、ウォルトとウェイカー)への愛情に満ちた真剣な助言が、痛切に心に響きます。
 また、キャンプ場の大人たちへの鋭く厳しい批評には、通俗的で儲け主義で思考力を持たない人々へのシーモァ(サリンジャー)の軽蔑が強く感じられます(さぞ、敵が多くて生きづらかっただろうなあと思ってしまいます)。
 一方で、普段異常なほど利用していた図書館の関係者には、ここでも批判的な視点はあるものの、彼らのサポートや助言に対する感謝と尊敬の念は示されています。
 最後に、彼らにキャンプへ送ってもらうように家族に頼んだ膨大なブックリストは、その理由も詳細に書いてあって、サリンジャー自身の読書リストだと考えると興味深いです。
 手紙の中には、シーモァ自身の人生が約30年(実際は31歳で自殺しています)であることや、この手紙の二年後に両親とシ-モァとバディが参加する重大なパーティ(このパーティ(これがきっかけでシーモァとバディ、その後他の兄妹たちも全員、がラジオ番組の「これは賢い子」に出演することになったのではないかと言われています。この番組への出演が、彼らの人生に大きな影響を与えることになります)についてバディが作品を執筆中であり、そのためにこの手紙を母親から送ってもらってタイプしているという設定になっています)に対する予言めいたことが出てきて、シーモァと同様の天才少年で予知能力を持つ「テディ」(その記事を参照してください)との共通性が感じられます。
 また、バディは、「バナナ魚にもってこいの日」、「テディ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」らしき作品(それらの記事を参照してください)の作者であることが「シーモァ ― 序論」(その記事を参照してください)でほのめかされています。
 そう考えると、従来は、グラス家サーガに含まれる作品は、「バナナ魚にもってこいの日」、「コネチカットのグラグラカカ父さん」、「フラニー」、「ズーイ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」、「シーモァ ― 序論」、そしてこの「ハプワース16,一九二四」の7作品と考えられていましたが、「テディ」も含めた8作品で考えた方がいいかもしれません。
 つまり、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が世界中で大ベストセラーになった騒動以降に発表された作品全部ということになります。
 この作品を批判する時に、いくら主人公が天才だと言っても、とても7歳とは思えないと言われることがあります。
 それは当然で、ここでのシーモァはただの7歳ではなく、7歳の時の体験(実際にサリンジャーが、こうしたサマーキャンプを体験したのはを11歳の時のようですが)を48歳になったシーモァ(正確に言うと、シーモァ自身は31歳で亡くなってしまったので、この時46歳のバディ(サリンジャー)の力を借りて)が描いているのです。
 こうした、「主人公が子どもらしくない」とか、「大人の視点が入っている」というのは、児童文学の世界では作品をけなす(作品評や合評会などで)常套句なのですが(私もしょっちゅう言われましたし、もしかすると何度か言ったかもしれません(自分の痛みはいつまでも覚えていても、他人の痛みはすぐに忘れてしまうものです))、この作品のような一般文学だけでなく、児童文学でも作品によってはこうした書き方も有効だと考えています(一番成功している例は、神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)でしょう)。
 この作品の最後は、こう締めくくられています。
「再び、バンガロー七号のあなたたちを愛する二人の無気味な厄介者より五万回のキスを。」
 そして、それに続く署名はS・G(シーモァ・グラスのことです)と並んで、なぜかバディ・グラスではなくJ・D・サリンジャーになっています。

 

 

 

 1989年公開のアメリカ映画です。

 ユダヤ系の老婦人とその黒人のお抱え運転手(息子が金持ちで、運転が怪しくなった母を心配して彼を雇いました)の25年(1948年から1973年まで)に及ぶ交流を描いています。

 最後の方では、老婦人は老人ホームに入り、運転手も自分では車を運転できなくなるほど年取っています。

 それでも、息子は彼に給料を払い続け(彼が母親にとってかけがえのない存在だと知っているのです)、二人して母を見舞ったりしています。

 アカデミー賞の作品賞、主演女優賞(ジェシカ・タンディが八十歳の最高齢で受賞しています)、脚色賞、メーキャップ賞を受賞しています。

 この映画は、二人の名俳優(タンディと運転手役のモーガン・フリーマン)の圧巻の演技で成り立っているといっても過言ではありません。

 また、息子役のダン・エイクロイドもいい味を出しています。

 作品の背景には、アメリカ南部における黒人差別(マーチン・ルーサー・キング牧師の演説も出てきます)やユダヤ人差別の問題もあり、庶民におけるアメリカ現代史的な趣もあります。

 

 

 

 三島由紀夫賞と坪田譲治賞をダブル受賞し、芥川賞の候補にもなった作品です。

 春休みに、利根川水系を我孫子から鹿島まで徒歩で旅するロードムービーのような趣のある作品です。

 小説家の主人公と姪のサッカー少女(サッカーの強豪の私立中に受かったばかりの小学六年生)の二人組に、就職の内定が決まった女子大生が偶然途中から加わります。

 「旅する練習」というよりは「練習する旅」といった方が適切かもしれない奇妙な旅です。

 主人公は、所々で立ち止まって、その場所の風景(水辺や水鳥が多い)を描写します(それが彼の趣味であり仕事でもあります)。

 その間、少女の方は、リフティングの練習をします。

 そこに、ジーコと鹿島アントラーズのファンになったばかりだという女子大生のエピソード(コロナのために内定辞退を促されます)が絡んできます。

 彼女との出会いもそうなのですが、いったん二人から離れて、再会するあたりは特に強引ですが、私自身もジーコと鹿島アントラーズのファンなので、それに関するエピソードはかなり楽しめました。

 それだけに、少女の死という衝撃的なラストは納得がいきませんでした。

 全体に、擬古的な文章だったり、古典的な文学者の引用を散りばめたり、運動能力の高い魅力的な少女が重要な役だったりなど、堀江敏幸の「いつか王子駅で」(その記事を参照してください)を思い起こさせますが、あちらはラストの読み味が良かったのになあと思わざるを得ません。

 

 

 

 映画化もされた2008年出版(雑誌連載は2007年)の作品です。

 学生時代に犯した集団レイプ事件の犯人と、その被害者である女子高校生のその後の人生を執拗なタッチで描いています。

 描写に迫力があって一気に読ませますが、二人の関係が途中でよめてしまって、興ざめさせられる点もあります。

 ひとつの事件が二人の一生をこのように狂わせるのは、ありそうでいて実はそうではないのではないかとの疑念を抱かせます。

 ただし、この作品は、極端な誇張や設定を使って、偶然性も多用したいわゆるエンターテインメントの書式で書かれているので、そこまでリアリズムを求めるのは野暮かもしれませんが。

 

 

 

 

 2008年公開の日本映画です。

 東野圭吾のベストセラー(直木賞をはじめとしてミステリー関係の賞など五冠を受賞しています)の映画化であるとともに、東野の短編をテレビドラマ化したガリレオ・シリーズの映画版でもあります。

 そのため、テレビで人気だった福山雅治や柴咲コウなどのキャストはそのまま使われています。

 しかし、彼ら事件の捜査側はそれほど前面には出ず、容疑者を演じた堤真一や彼がかばうことになる女性を演じた松雪泰子の物語(原作もそうなのですが)の方がクローズアップされます。

 特に、松雪は薄幸の美人役をやらせてたら天下一品なので、この映画でも一番印象に残ります。

 堤真一も、普段と違う暗い役柄を熱演しています。

 ストーリー自体は、こうした原作物にありがちなのですが、かなり端折った感じは否めず、原作の淡々とトリックを積み上げていく感じは、かなり薄まっています。

 

 

 

 

 

 高名なシャーロッキアン(シャーロック・ホームズ研究家)が書いた入門書です。

 彼らが正典と呼ぶ全60篇(長編4篇、短編56篇)の解説をもちろん、主なキャラクター(ホームズとその相棒のワトソン博士をはじめとして、仇敵のモリアーティ教授までの重要人物が詳しく述べられています)、時代や地理の背景、著者のアーサー・コナン・ドイル、さらにはパスティーシュ(他人が書いた続編)やパロディ、関連図書、他のメディア作品など、詳しく紹介されています。

 特に、どの単行本や文庫本(著作権が切れているせいもあり、各社から出ています)を読めばいいかを読者のタイプ別に紹介しているのは、初心者には親切です。

 全編、シャーロック・ホームズへの愛にあふれていて、いかに同好の士を一人でも増やそうとしているかの熱意が感じられて、好感が持てました。

 

 

 

 

 2021年公開のアメリカ映画です。

 ゲームソフト(サングラスをかけたキャラクター(ゲーム参加者)が銀行強盗や殺人などの犯罪をしまくります)の背景のキャラクター(毎日、毎回、同じ役割をこなすだけです)のガイ(強盗に入られる銀行の受付係)が、恋することで自我に目覚め、成長を始めます。

 最終的には、ゲーム会社のオーナー(典型的な悪者キャラです)と彼にソフトをだまし取られた男女のソフトウェアエンジニアの戦いと恋愛が描かれているのですが、最大の見どころはモブキャラ(雑魚キャラ)が団結して自由な世界を勝ち取るところでしょう。

 映像とゲーム世界を融合させる新しい試みの映画かもしれません。