153 天皇陛下の祈りのお力 | 無無明録

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書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

1945年(昭和20)8月15日の正午、昭和天皇の玉音放送が全国に流れたとき、皇太子だった今上陛下は、奥日光のホテルの一室で、側近の人達とともにその放送をお聞きになられた。そのとき、皇太子殿下の瞼は涙があふれていたそうだ。その日、今上陛下は、「新日本の建設」という作文をお書きになられた。


(中略)

今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言って来るかわかりません。これから苦しいこと、辛いことがどの位あるかわかりません。どんなに苦しくても、このどん底からはい上がらなければなりません。それに日本人が、国体護持の精神を堅く守って、一致して働かなければなりません。今までは、勝ち抜くための勉強、運動をしてきましたが、今度からは皇后陛下の御歌のように、次の世を背負って新日本建設に進まなければなりません。
 それも皆、私の双肩にかかっているのです。それには、先生方、傅育官のいう事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにも耐えしのんで行けるだけのねばり強さを養い、もっともっとしっかりして明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならないと思います。



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 これをお書きになった今上陛下は、学習院初等科6年生で12歳だったそうだが、「それも皆、私の双肩にかかっているのです」と云うお言葉の中に込められた決意と責任感に、ワシの胸はあつくなった。


 さて、硫黄島である。この島で戦死した旧日本軍将兵約22000人のうち、これまでに収集された遺骨は約1万人分にとどまっていると云う。島にいるのは自衛隊だけで、その自衛隊機が離着陸に使う滑走路の下にも骨が埋まっているそうだ。よりによって何故に遺骨の上に滑走路作ったんだと思ったが、勿論日本が造ったものではない。硫黄島が陥落して、米軍がそこに、まさに無慈悲にも滑走路を作った。その後、島は日本に返還されたから、自衛隊がそのまま滑走路を使っていると云うことだ


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硫黄島に駐在した自衛隊員は、誰でも経験するそうだが、「冷蔵庫の中の飲み物の瓶がガタガタガタガタ鳴る」これは必ず誰でも経験するらしい。硫黄島で亡くなった英霊の方々の多くは、とにかく水が飲みたいと云う状況下で脱水によって亡くなったのだそうだ。


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 夜になると軍靴の足音と軍馬の足音が宿舎に聞こえるのだそうだ。宿舎の四隅には塩が置かれた。しかし、それでも、毎晩、足音が聞こえ、止まない。それは、偉いお坊さんや神主さんが行って、数々の慰霊を積み上げても一向に止まらなかった。


 ところが、今上天皇皇后両陛下が、1994年(平成6)に硫黄島をご訪問されて、慰霊祈願を捧げ、真心を手向けられたその夜から、軍靴と軍馬の足音が聞こえなくなったと云うのだ。陛下がお帰りになるときには、慰霊祈願した場所から天に向かって火柱が走ったとも云う。


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平成23330日に始まった天皇皇后両陛下の東日本大震災の被災者へのお見舞いは、7週間連続で行われ、回数は10回を優に超える。陛下は、被災者への激励はもとより、犠牲者に対する慰霊と鎮魂のためにも足しげく被災地に向かわれているのではないかと思う。

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 インドであつい歓迎を受けた天皇皇后両陛下。いつもながらに慈愛に満ち満ちた笑顔が嬉しく有難い。天皇陛下は1223日で80歳をお迎えになる。いつまでもお健やかでいただきたいと願うのみである。




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