152 七転び八起きの人 | 無無明録

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書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

第20代内閣総理大臣は、高橋是清(たかはしこれきよ)67歳。在職期間は、1921(大正10)年11月13日~1922(大正11)年6月2日の212日間だった。高橋是清は、日銀副総裁、日銀総裁などを務め、ロンドン留学時代の人脈を利用して日露戦争の戦時外債の公募などで活躍した。


1905(明治38)年、貴族院議員に勅選され、以後、昭和11年2月に陸軍の青年将校に暗殺されるまでの間に、その金融経済と財政政策の手腕を評価され8回も大蔵大臣に就任している。原敬内閣でも大蔵大臣を務めており、原が暗殺された直後に、蔵相兼任の第20代の内閣総理大臣に就任し、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。日本のケインズとも云われているな。


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 何と云うキュートな顔なんだろう・・・是清さんが幼い頃、神社で遊んでいたら、藩侯の奥方が、参拝に来たそうだ。物怖じしなかった是清さんは、ニコニコしながら奥方の膝に登ったそうだ。封建時代のことで、これは大変なことになると思ったら、奥方は、是清さんをすっかり気に入ってしまい、「お城に遊びにおいで」と云ったそうだよ。


 「高橋の息子は運がいい」と噂になり、それが是清さんの耳にも聞こえていた。以来、是清さんは、自分はとびっきり運のいい男だと思い込むようになり、 そして、「どんなに失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換して来るものだと一心になって努力した

 ところで、是清さんの子供の頃って、きっとキューピーちゃんのようだったんだろうな。



 高橋是清は、1934(昭和9)年11月、第31代の岡田啓介内閣総理大臣の組閣の際に、8回目の蔵相に就任したが、インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件で青年将校達に暗殺されてしまったんだ。享年82。
 
 高橋是清は、その風貌から「だるま宰相」と呼ばれて親しまれたそうだが、その人生も七転び八起きだった。江戸に生まれた是清さんは、2歳のころ仙台藩の高橋家に養子入りした。その俊才を認められ、14歳のとき、洋学修業のためアメリカに渡ったが、現地で英語もよく分からないまま、奴隷契約書にうっかりとサインしてしまった。これでとんでもない苦労を背負い込むのだが、自立した人生のスタートが奴隷と云うのは凄すぎるぞ。
 

 やがて世話役などの奔走でようやく自由の身となり、英語などを勉強して帰国。是清さんは、知り合いに紹介され、初代伊藤博文内閣で文部大臣を務めた森有礼の口利きで大学南校(いまの東京大学予備校のようなもの)の教師として採用されたが、この頃から悪い遊びを覚えてしまい、宴席で大酒を飲み芸者をあげて大騒ぎする始末。なんやかやで学校を辞めて無一文になり、馴染みの芸者のところに転がり込んで、芸者の荷物持ちになってしまった。これが18歳のときだと云うから何ともはや。


2011-10-29 18:11:25

 

「生を踏んで恐れず」高橋是清。14歳で渡米するとき、祖母が是清さんに切腹の作法を教え、一振りの短刀をくれたそうだ。芸者遊びにのめり込んだのも、学生の借金を肩代わりしたのがきっかけだったようだ。



 芸者に意見され、発憤した是清さん。友人の紹介で唐津に都落ちし、英語の先生になった。毎日三升の大酒を呑んでは血を吐いたりしたそうだけど、芸者がいなかったので、芸者遊びはできなかったから、何とか真面目に毎日を過ごしたらしい。


知り合いの紹介で前島密に呼ばれ、大蔵省に出仕。郵便事業の文書の翻訳をしていたが、前島と喧嘩して辞職・・・。しばらく外国新聞を翻訳して日本の新聞社に売りつけたりしていたが、そのうち森有礼に呼ばれて文部省に出仕。東京外語学校、大阪外語学校の校長を歴任する。


 しばらく平穏な暮らしが続いていたところに、ここで友人が、今後は畜産事業が発展するからぜひ参加しないかと、うまい話を持ちかけてきた。これに乗ってしまった是清さん、わざわざ長野まで視察に出かけたりしたが、この畜産事業と云うのが出鱈目な話。財産をだまし取られ、友人はトンずらしてしまう。
 

 捨てる神あれば拾う神あり。今度はいい友人の紹介で、新設された農商務省に出仕。特許関係の文献を翻訳し、その道の専門家と認められ、パリ、ベルリン、ロンドンと、ヨーロッパにも調査旅行に行ったそうだ。


 しかし、好事魔多し。友人が「ペルーの銀山は大変有望だぞ」と余計なことを吹き込む。是清さんは、農商務省も辞め、全財産をペルー銀山に注ぎ込んだが、その結果は、限りなく廃坑に近いと云うものだった・・・・しかし、これも私利私欲の行為ではなく、日本の利益をかんがえてのことだったんだ。



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 お孫さんだろうな・・・。「私も今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、食うに困るから助けて下さいと、人に頼みにいったことは一度もない。いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ」


 何回も騙されたりして苦境に陥った是清さんだが、そのたびに誰かが助けてくれる。それは、是清さんの才能と人物を見込んでいたからなのだろうと思う。


 今度もまた、友人が助け船を出し、日本銀行に勤める。やがて才能を認められて正金銀行の支配人となり、日本銀行に戻って副総裁となり、日露戦争の際には外債の募集に力を発揮した。これはほとんど是清さん個人の力だと云うから恐れ入った。辛酸を舐めた半生が人間を練り上げたと云う訳だな。その辣腕が政界にも認められ、山本権兵衛内閣の蔵相に迎えられ、政友会に入る。そして、原敬暗殺後、政友会総裁と総理大臣になったんだ。



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 お札にもなった是清さん。「一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才には、生きた財政は分からないものだよ」



 やがて昭和の金融恐慌。破産した日本経済を立て直すべく蔵相に就任した是清さんは、モラトリアム(支払猶予措置)政策などで何とか破産を逃れたが、やがて、軍部が台頭してくるんだ。


 是清さんは、犬養内閣や岡田内閣の蔵相として陸軍の無茶な予算請求に「日本にそんな金はない」と、頑として抵抗し、日本の財政を守り続けた。しかし、2・26事件だ。高橋是清さんは、陸軍の青年将校らに暗殺されてしまった・・・。その結果、日本の財政構造が滅茶苦茶になって、やがて、戦争に突入していくことになるんだな・・・・・。




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