118 近藤勇と松本良順 | 無無明録

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書を読むは、酒を飲むがごとし 至味は会意にあり

 1864年(元治元)10月、奥医師松本良順の医学所に一人の武士が訪れた。玄関番の医学生が出てみると、大身の旗本風で、大小も身なりも立派、何よりもただならぬ風貌と武芸で鍛えぬいたらしい身のこなしが、医学生を圧倒した。


その武士は名刺を差し出しながら、四角ばった口調で、
「松本先生は御在宅か。御在宅なればぜひお取次ぎ願いたい」
医学生は、その名刺を手にして四肢が硬直した。「新撰組局長 近藤勇」



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池田屋事件以来、近藤勇の名は、戦慄を伴って江戸市中に鳴り響いていた。医学生はとっさに「先生が殺される」と思い、もつれる足で奥に引っ込み、松本良順の奥方と、書生部屋でゴロゴロしていた医学生に急を告げると、裸足で裏口から逃げだす者もいる。



「近藤勇来たりて名刺を通じ、面会を乞う。家族皆恐怖すること少なからず。余曰く、然らず、世人多くは勇の暴虐を説くも、我その人となりを測るに、すこぶる鋭勇にしてその為すところ多くは道理に適せり」(松本良順「蘭疇自伝」)



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松本良順と近藤勇の付き合いはこのときに始まった。

 近藤は、良順に面談すると「開国と攘夷の是非」を問う。良順は、無骨な近藤にも分かりやすく、日本と西洋の力の差を「刀と大砲」に例えて話し、いたずらに攘夷を唱えるよりも、国の将来のために開国を是とすると答え、近藤は、良順の率直さに大いに感服する。


最後に、玄関に見送りに出た松本良順が近藤に尋ねた。

「今夜はどちらへ?」

「会津公の上邸へ宿って居ります」

「それは途中物騒、お気をつけなさるがよい」

「いやいや、物騒の問屋はこちらでして」

「如何にもな・・・」


その三日後、近藤は再度医学所を訪れた。出てきたのはまたしても件の医学生。近藤は、三日前の騒動を思い出すと、可笑しくもあり、気の毒でもあったので、精一杯の笑顔を作った。「今日は本当の患者です、診察してください」えくぼが二つ出来て、人のよさそうな笑顔だったそうだが、そんなところもあったのかな。この写真の近藤の顔しか知らないけど、近藤勇の笑顔、見てみたいな・・・。



「これを診察するに、食物不良、この為に胃を損するにあり、よって健胃制酸下剤を与う」

 近藤さん、普段何食ってたんだろうな・・・。



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 松本良順は、後年江戸に引き上げてからも新撰組隊士の面倒をみて、幕府崩壊後は、旧幕府軍と共に会津に入り、野戦病院を開いて、多くの傷病者の治療に当たった。しかし、会津藩主松平容保公は、決戦を前に良順に会津を離れるよう諭す。良順を惜しんでのことだった。


仙台では、榎本武揚に蝦夷行きを勧められて逡巡する良順のもとに、土方歳三が訪ねてきて、江戸に戻ることを勧める。良順への敬愛とその医術を惜しんでのことだったのだろう。土方はこの時、自分たちの行く末が見えていたのだろうか・・・・。




良順は、朝敵として捕らえられ禁固。赦免後は、山県有朋に請われ、兵部省に出仕し、軍医総監、貴族院議員などを務め、明治40年、76歳で没した。


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松本良順にこんな話がある。

「○家の娘が、先生にお診立てで腸満(腸管内にガスが溜まり腹が膨れ上がる症状)として投薬しておりましたが・・」

「あれは腸満だ」

「それが子供が生まれたと申して参りました」

「馬鹿なことを言え、腸満が子を産むか」

「それが、いろいろ先生のお骨折りにてと申して、お礼まで持ってきております」

「うんそうか、それでは腸満ではなく妊娠しておったのか」



 ここは、松本良順先生、婦人科は専門外だったと云うことで、どうかひとつ・・・。





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