174 丹誠から曽祖父熊蔵への書簡 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

曽祖父熊蔵への書簡が押し入れに数多く残されていた。特に明治期から大正期の日付で、大子尋常高等小学校長時代のものが多い。その中には、丹誠氏からの書状が4通あった。彼がいかなる人物であるか興味を持って調べていく内に、ご子孫の方に知り合う機会を得た。丹誠については、「茨城教育家評伝」(大正三年十月五日、茨城教成社の中で、以下のような記載がある。

 不平と奮闘=丹 誠 氏

□福田晋氏と共に忘るべからざる丹誠氏なり。両氏殆ど同時代に拡充学校に学び、而かも同一轍に出でしが福田氏は幸運児としてトントン拍子なるに反し、丹氏は一時悲境に陥りぬ。

□福田氏が縣廳に御用係として出仕せし如く、丹氏も少しく遅れて明治十四年御用係となり、勧業課通信係、学務課税察係、衛生課兼務等を務め、此間幾多の不平は氏の胸中に燃え、遂に諭旨免官となり、三十一年四月、不平満々の裡に筑波郡視学として転じぬ。

□其当時福田氏は既に郡長として東茨城にあり。丹氏の胸中や如何に。斯くして筑波に郡視学たること僅々一ケ年にして辞職し、三十二年七月再び縣属として学務課に転ず。

□這は氏が将来郡長たるの素地を造らんとするが為にして、専心職務に力むる傍ら修養を怠らず、此間に於ける氏は実に塗炭苦しみなりしが、天は飽くまで氏を捨てんとするものにはあらざりき。

□明治三十四年一月、多年の宿志は実現せられて氏は久慈郡長に栄転せり。爾来郡治に専念する事前後十年、四十三年十月、池田序介氏の後釜として那珂郡長に転じ、大正三年福田氏の赤十字支部主事を辞するや、氏は其後釜に座し、今日に至りぬ。

□氏が過去の大部分を貫くものは不平と奮闘となりき。此不平と奮闘との為、人と為り、運命を開拓せり。大度にして常に清貧に安んじ、威容ありてよく其地位に安固たり。

さて、今回の史料は、丹誠氏からの大子館から出された書状などである。なお、丹誠氏は、藤田東湖の母(町与力であった丹氏の娘梅)の子孫であり、豊田天功や幼児教育の魁である豊田芙雄とも縁戚関係にある。

 この書簡は、大子館に出張している丹誠が久慈郡長か那珂郡長の在任中に、熊蔵に相談したいことがあり、宿舎に来てほしいと丁寧に依頼している内容であろう。

拝啓御安健奉賀候陳ハ本県

第二部長及師範学村付属

主事宗像氏ト同行、只今

到着致候処、御相談、相願

度儀有之ニ付、乍御足労

当店迄御登来相願度

此段得貴意候 敬具

四月廿日 丹誠

  内田 熊蔵殿

貴下

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に、熊蔵と丹誠氏との交流関係を示す書状が次の通りである。

「華翰拝見仕候

愈御安静御奉職

奉賀候、此間ハ行違

ニ御座候拝姿失敬致候

今般小生、位勲昇

級ニ付早速御祝詞ヲ

辱シ御厚情之段

奉謝候、寸功も無之

只永年奉職候計

の事、愧入候得共、恩典

難有事ニ御座候

久敷貴地の方無沙汰

故貴台御尽力之御

功績又ハ其他の事少

も不相分候得共、不相変

堅固之御精神ヲ

以子弟御教育之事ハ

啻ニ貴地方の幸福

ノミナラス為邦家可賀

事ト敬服罷在候、益子

町長も不相変勤務ト被

存候、御序ニよろしく御敬

意可被下候、先ハ御礼迄

早々如此ニ御座候 敬具

七月七日   誠

   内田賢台

           貴答」

封書には、大正3年7月8日の消印がある。裏には菅谷村丹誠とあり那珂郡長として活躍していた時であろう。書状の内容により、熊蔵は丹誠氏の位勲昇級を喜び、祝詞の手紙を送った事への礼状であるが分かる。この中で、行き違いにより会うことができなかったことを詫び、熊蔵に対し、「不相変堅固之御精神ヲ以子弟御教育之事ハ啻ニ貴地方の幸福ノミナラス為邦家可賀事ト敬服罷在候」と大変な敬意を払ってくれたことは、子孫の一人として嬉しく思う。

後の2通は、寄付金の礼状と、もう一通は、次のような内容であった。

「拝啓其後ハ御無音御仁恕可被下候、伜病気御配神被下奉謝候、此程快方ニ而上京候間、御安神可被下候、此度ハ不得拝眉被帰候間、失敬致候 早々拝

     丹誠 十九日 内田熊蔵様  貴下」