172 元治元年の千住宿 | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

 元治元年は水戸藩にとっても、江戸幕府にとっても大変な年であった。1月には、将軍家茂が朝廷の要求により、再上洛し、一橋慶喜は、禁裏守衛総督として京都で難局に対応していた。3月27日に藤田小四郎、田丸稲之衛門らが攘夷の実行を旗印に筑波山に挙兵、7月には京都で禁門の変が起き、慶喜公は、第一次長州征伐を指揮した。水戸藩では保守門閥派の諸生党と改革派の天狗党の内訌が激化していた。

  今回の史料は、水戸街道の出発点である「千住宿」においての騒動を記録した文書である。水戸藩では、藩主は定府として江戸におり、この年は、慶篤は江戸城留守を命じられていた。水戸藩士は度々自分たちの要求を藩主や幕府に訴えるため、大挙して江戸に向かう事が多くあり、これは「南上」と呼ばれていた。第一回南上は、斉昭の藩主擁立を計った文政12年である。その後も、弘化元年の斉昭雪冤のための第2回南上、弘化4年の第3回南上、安政5年勅諚返還反対の第4回南上と続く。その規模は農民も含めて数千人に及んだ。

 そして、元治元年、5月には筑波挙兵に機会に、天狗檄派の打倒を計り、諸生派や天狗鎮派が南上、藩主慶篤へ藩政刷新を訴え、市川三左衛門、佐藤図書、朝比奈弥太郎らを執政に任じ、諸生派の政権となったが、翌6月には、天狗鎮派の榊原新左衛門ら約700名が南上して、市川らの排斥を訴え、慶篤公は其の説を汲み、市川、佐藤、朝比奈らを辞めさせ、大寄合頭の鈴木縫殿、岡部忠蔵を執政とした。水戸藩の政権が天狗檄派から諸生派、天狗鎮派へとめまぐるしく変わっていったのである。さて、今回の史料を見てみよう。

一 千住新関御受持酒井大学頭様御番頭江出会此節者

  一条相尋候処先日御同藩被成御出候節者格別相変候筋も

  無之候得共七日夕刻水藩五拾人目付之内三人相見へ是々之

  人数者是非出府為致呉候様拾五人之姓名書附持参且精々

  稠敷下知方致置候得共壮年若輩之徒ニ於者如何様変事

致出来候も難計大ニ心配罷在候旨申出有之候ニ付以其趣相伺

候処拾五人之内

                水戸様御家老

                 鈴木縫殿

                 上下弐拾八人


                                              岡部忠蔵

                        上下弐拾八人

                  岡田新太郎

                    上下弐拾八人

             大番頭    弐人

            外ニ    松本十左衛門

            内弐人  梶又左衛門

             通    小池源左衛門

                   里見甚助 

右之人数罷通可然と之御沙汰付此旨申し達候処本朝五時頃

被罷通候此儀者水戸侯右人数之分御通被下候様御願出有之

候哉無左候而者仁指ニ而御沙汰之筋も有之間敷被申聞候別

厳重番ニ而具足着用大砲者玉薬込置水戸街道ニ指向有之候

番士者双方ニ而上下弐百人程之人数水藩者小金迄者四千人共

申事故、万一変事致出来候節者、仲々敵対出来兼可申

抔と被申聞候

一千住宿一里半程有之候新宿ニ水藩止宿之由ニ付罷出候処

 ○駅ニ而凡人家五拾軒余も有之候哉、水菓子屋等ニ至迄大抵


○宿大家ニは士分五六拾人も罷居候付何れ千人余之人数と相見候

○之者重役方伯と相見へ門は表札内は幕張廻有之候

壮年之侍分多、下部少し、具足は稀見受鉄砲等は見受

不申位之事ニ御座候、衣類は平常通ニ而割羽織

裁付位、具足等着用とは見受不申、馬も三四騎見受申候、右

宿手前かめありと申所も二三軒止宿、是は先、用心之為

番士之様子ニ而茶屋外々、腰掛罷在候、此所千住半里も

隔候場所御座候、夕方○新宿罷帰候節は、千住関増

人数相成居申候、定夜分は格別厳重と奉存候


先日伊東源兵衛殿石川孫四郎殿聞合之趣承候ニ水藩罷出候処

途中ニ而浮浪壱人囚江此者水戸藩中と偽方々乱妨致候ニ付

頭を刎肆々有之候由ニ候処、昨日途中相馬様藩中ニ

出会致候ニ付相尋候処、実説ニ而罪を記肆有之候を見受

参候旨被申聞候、且浮浪共上妙()我孫子と申所之町家を

焼払候次第も咄有之候処町屋之者他行稠敷曽留若他行

致候節切捨候抔と威掛、火を発候由ニ付焼死之者有之

候趣も被相咄候、此我孫子も道中筋之由ニ而右浪士は田中

愿蔵ニ而は有之間敷哉、其近辺江三百人程止宿是成英勇

田中愿蔵旅館と高札を建、白絹之幕ニ橘之紋を付打廻

仕は鉄炮持始終見廻致居候由酒井様番頭も咄御座候

右之通於千住関所承合候 以上 

七月朔日

元治元年7月1日付けの以上の文書であるが、この千住宿は、水戸街道の始点であり、江戸四宿最大の宿場町で、多くの旅籠が並んでいた。ここに、水戸藩の天狗派や諸生派が屯集してきたのである。田中愿蔵勢の様子も書かれており興味深い史料である。