159 水戸藩医師小林元茂の転居伺い | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

本ブログ96「水戸藩の医学と小林元茂」(2017.2.16)で小林元茂について書いたことがある。今回の史料は、彼の転居についての伺いと水戸藩重臣の呼び出しの書状である。小林元茂は、産婦人科を専門とした医師で、水戸藩の奥御雇となり、側医となった元茂定孝である。彼は、文政10年に250両の献金をして、郷士となり苗字帯刀を許されている。天保12年には、7人扶持医師並小十人組上座に昇進していた。そこで、下記書付の通り、天保十四年に転居の許可を水戸藩に申し出たのである。

 

     新屋敷柳小路南側

   一 表間口 十一間三尺

   一 南奥行 廿七間四尺

       北 同 廿五間三尺

    右 は小従人目付  立合

      右受取申候    和田善太郎

                     宇佐美平五郎

 小林 茂

   御普請奉行

   川瀬隼吉    鯉渕彦太郎

   谷田部雲八

   居屋敷拝領仕度旨

   奉願趣達

   高聞此度岡田一琢

   揚屋敷被下置旨被

   仰出者

          天保十四年卯九月十九日

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次は、その返信としての呼出状である。差出人は、大場弥右衛門と今井金右衛門であり、大場弥右衛門は、一真齋や景淑(かげよし)とも言い、斉昭の藩政改革に尽力した人物であり、天保15年斉昭が幕府から処分をうけた時、同事に失脚したが、維新の際には本圀寺党の重臣として賊徒征討の勅命を全うした。

今井金右衛門は、名を惟典(これすけ)と言い、同じく斉昭がすすめる藩政改革を推進、寺社奉行となり廃仏棄釈を進めたため寺院の反発をまねき同時期に免職謹慎となり、弘化4年48歳で死去している。この手紙が書かれた天保14年は、改元されて、弘化元年となり、斉昭は急進的な天保の改革を咎められて、藩主を慶篤に譲り、隠居謹慎をさせられた。

 

 

大場弥右衛門

 小林茂様

         今井金右衛門

 

 御用之義有之候条

 明十九日五半時登

 城可被有之候 以上

  九月十八日

 天保十四年

卯九月十九日

 このように、武家屋敷に住むためには、藩の許可が必要であったのである。なお、末尾の期日は、記録の保持のため、後で記載した端書であろう。