158 水戸藩士三木陸衛門から小瀬弥一衛門への書簡 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

         此方何か滞分有之御免ヲ被  三木陸衛門

御使番  蒙候へ共不済夫ゆえ六日夜八ツ

半頃御評定所ヲ御繰出候由  

水戸の町人学者加藤松蘿が書き写した文書「文政七甲申夏異国伝馬船大津浜へ上陸并諸器図等」は、文政7年(1824)における英国捕鯨船乗組員12名の大津浜上陸時の様子、村役人の対応、近隣住民の反応、異国船出没に対しての沿岸警備等の記録である。會澤恒蔵(正志齋)は筆談役として、聞き取りを行っているが、その中に御使番である三木陸衛門の名が見える。彼は短気な所があるのか、その日の内に評定所を出ていってしまったらしい。この事件は、鎖国中の日本に異国人が上陸したことで、大変な騒ぎとなった事件であった。

 さらに、天保111840)年に行われた最初の「追鳥狩」にも参加していたのは、手持ちの「武講録追鳥狩陳」の冊子にも大番頭として登場している。三木家は代々武芸に優れた家柄であり、彼は三木陸衛門玄善で、天保12年には中奥小姓、弘化元年に烈公参府に同行し、江戸詰となり、格式所番頭格として烈公附となる。また、万延元年には側用人、馬廻組頭となるなど、斉昭公の信任が厚かった。彼は、天狗鎮派の一人として、水戸藩主徳川慶篤が分家の宍戸藩(1万石)藩主松平頼徳に名代として水戸の鎮圧を依頼したことから、榊原新左衛門らの一行(大発勢)に加わり、市川三左衛門らの諸生派と対立、幕府による賊徒追討軍と一体となった諸生党に那珂湊の戦いに敗れ、水戸赤沼の獄で処刑された人物である。

 今回の史料は、三木陸衛門から、小瀬弥一衛門に出された書状2通である。1通目は、木版刷りの封筒に、書状の紙も厚手の和紙に書かれている。書状の書き出しは「小瀬賢兄 三木拝 御直披」とある。御直披とは、手紙の脇付の一種で、必ず自身で封を(ひら)いて読んでほしいという意味である。小瀬賢兄との表現には、強い信頼や尊敬の念を感じることができる。

もう1通は、茶色の和紙に書かれている。封筒はなく、小瀬大兄と尊敬の敬称を用いているから、とても親しい関係であったのだろう。

 

これらの内容については、今後良く検討してみたい。