139 松浦武四郎より小瀬弥一右衛門への書簡 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

小瀬弥一右衛門への書簡を多く紹介してきたが、今回の史料も、松浦武四郎から弥一右衛門へ書簡である。松浦武四郎『文化15(1818)年 - 明治211888)年』は、探検家であり、浮世絵師でもあり、また、収集品である書画や珍しい石、古銭・勾玉など、古物を愛する「好古家」としても有名な人物である。しかし、最も彼の名前を知らしめているのは、度々蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した人だからであろう。ただし、北海道という名は、斉昭公が、松浦武四郎と豊田天功に命じて作成させた「大日本史」の「北島志」の中に書かれており、その名は斉昭の考案によるものであることは忘れてはならない。武四郎は、水戸藩のバックアップを受け、幕末に6回蝦夷地に渡り、蝦夷地の詳細な調査を行っている。

彼は、伊勢国(現在の三重県須川村)の郷士(庄屋)の家の三男として生まれた。彼の家は伊勢神宮に近い宿場町にあり、全国各地から伊勢神宮を訪れる旅人に接し、旅への関心を深めていったのだろう。16歳の時に家出同然で江戸の旅に出ている。その後も全国を旅する中で、蝦夷地に度々ロシアの船が来ているのを知り、天保15(1844)年、26歳の時、始めて蝦夷地に渡っている。そして、帰路に水戸を訪れ、會澤正志齋に面会した。正志齋は、弘道館の総裁を務めており、外国の侵略を恐れて、水戸藩の尊皇攘夷論を体系づけた「新論」を著し、全国に高名な人物であった。水戸藩は、蝦夷地に強い関心を持ち、2代藩主光圀は「快風丸」と名付けた大船(總長約49メートル、巾約16メートル、櫓40挺)を建造して、貞享3(1686)年と4年に蝦夷地に派遣し、元祿元年(1688)年には、65人を乗り込ませて第3回目の蝦夷探検に赴かせている。また9代目藩主斉昭は、ロシアの南下に備え、国防のため自藩による蝦夷地開拓を幕府に願い出、更に将軍にも文書を提出したが許されなかった。

一介の郷士の息子にとって、蝦夷地の探検は容易ではなく、蝦夷地に関心を持つ御三家の水戸藩から、若し何等かの庇護が得られれば、心強く有難いと、武四郎は密かに考えて、先ず会沢正志斎に接触したのではなかろうか。この後、彼は、水戸藩との強い絆で結ばれていく。特に水戸藩士の加藤木賞三(本ブログ65参照)とは江戸で知り合った後、いわゆる幕逆の友となり、賞三の三男一雄を嗣子として養子に迎えた人物である。加藤木賞三を通して、藤田東湖は蝦夷探査の経過をつぶさに聞いていた。それは烈公徳川斉昭の耳にも入り、後に武四郎は侯へ『蝦夷日誌』を献上し、侯からは和歌を贈られている。

 

小瀬弥一衛門様 松浦武四郎

           尊書下

先刻は御尊来被成下候処

御麁(粗)末申上候甚以被恐入候

事ニ御座候 然者今夕方

七内西丸両人之内一寸

拙宅へ御遣し被成下候様

奉願上候此段得貴意

謹言      以上

二十五日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  この書簡の相手、小瀬弥一右衛門とも親しい間柄であったことが文面からも分かるのである。文中の中で、七内、西丸両人の内一寸拙宅に遣わしてほしいと頼んでいる。この西丸とは、磯原村出身(現北茨城市)の西丸帯刀(1822-1913)ではないだろうか。彼は、尊攘派の志士として活動し、長州藩士桂小五郎らと長州の軍艦「丙辰丸」内で、幕府の幕政改革を通じて尊皇派の政権を樹立しようと試みる盟約「丙辰丸の盟約」を交わしたことで知られている。また、明治維新後、水戸藩に北海道開拓が許可されると開拓役人として北海道に赴いて、明治3年権大属となり、開拓責任者を務めており、北海道と関係が深い人物である。