138 亜墨利加条約関係文書(写し) | 水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

  安政5(1858年)年6月22に大和守殿御渡御書付の文書を、土佐藩の家臣の家に7月12日に泊まりに行った小瀬弥一右衛門が書き写した文書がある。幕府の大目附、御目附から万石以上之面々へ申し聞かされた内容である。

   安政5年619日に江戸幕府は「日米修好通商条約」を結び、安政の五か国条約に無勅許調印をした。その前年、駐日米国総領事ハリスは通商条約締結を企図し、安政4(1857年)10月、将軍家定に謁見し国書を奉呈した。また老中首席堀田正睦と会見し、英仏艦隊の来航の可能性と阿片禍の危機について強調し、米国と第一番に通商条約を結ぶことが日本にとっていかに有利かを説いた。その結果、幕府は条約締結へと動き出し、井上信濃守清直・岩瀬肥後守忠震を全権としてハリスと交渉した結果、安政5年正月に妥結をみた。しかし幕府は勅許が得られないことを理由に調印延期を要請した。6月中旬になると清におけるアロー戦争の英仏連合軍の勝利が伝えられ、ハリスは英仏の脅威を説いて調印を強く促したので、大老井伊直弼は調印に踏み切り、この日神奈川沖の米艦ポーハタン号上で締結したのが日米修好通商条約である。この文書が出されたのは、その3日後のことである。その内容は以下の文章で始まる。

大和守殿御渡御書付

大目附御目附へ

亜墨利加条約之次第

朝廷へ御伺に相成候処深被為脳叡慮候次第被仰遣候段御尤之御儀ニ付再応各赤心御尋ニ相成今少ニて存意書之揃候間其上篤と御勘考

之上御○定可被遊思召ニて精々御差置被為在候折柄今度

魯亜友國之船渡来申立候趣は英仏之軍艦近日渡来可致尤清国に十分打勝、其勢に乗し押掛候事に付・・・


応接方甚御面倒・・・

朝廷へ御申上済に相成不申候テハ御取計難被遊御疑心尤忽チ兵端を開キ万一清国之覆轍を践候様之儀出来候ては不容易御義ニ付井上信濃守岩瀬肥後守於神奈川調印・・・」と続く。さらに、最後の部分が以下の通りであろう。

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叡慮候様可被遊 思召に候此度之御一条不取敢宿次奉書ヲ以京都え被 仰進委細之儀は追々被 仰進候事に付此後之処置に付考意も可有之向も無腹蔵可申聞候

 

 六月廿二日

右之通万石以上之面々被御申聞シ召候以上

 

右書付午七月十二日夕土州御家中泊りにて内覧いたし借り写書

 アヘン戦争で清国を打ち破った英仏軍が日本に攻めてくることを恐れて、アメリカとの条約を朝廷の許しを得ずに結んだことに強く反対している朝廷への対応について、幕府は、開港か佐幕かを判断できず、如何にしたらよいかを御三家や譜代大名だけでなく、外様大名や旗本にまで、意見を求めた書付である。

  水戸藩の小瀬弥一右衛門は、大きな関心を持って、この書付を書き写したのであろう。嘉永6年黒船の来航、翌年(安政元年)には再びペリーが江戸湾に再来し、幕府は、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。そして安政5年、朝廷の強い反対にもかかわらず無勅許での調印となった。以後尊皇攘夷の運動が一層活発化し、大老井伊直弼による反対派弾圧(安政の大獄)が始まるのである。