自分勉強用
2026年3月17日 丙午年 辛卯月 庚寅日
人生半ばで
戦争と平和の違いを
やっと理解できた気がする。
子供の頃の12年間、
平和学習が当たり前のように
毎年あったから、
これでもかと
被曝体験の悲惨さと
今の状態が平和だという妄想染みた押し付けを
シャワーの如く浴びてきて、
感想文を書くネタも
年々尽き果てて、
武器が絡むことや
死傷が出ることが戦争で、
生きることが辛かったり
親から八つ当たりされることは平和なのだろうか?と
謎な空間を内観して、
戦争と平和、と言っているけれど、
はて?
本当は善も悪もないんじゃないの?
となり、
県外へ出て
他県民である友人達の寛容さと緩やかさに衝撃を受け
こころの広さというものを知り、
絵本の世界に触れて
こんな氣持ちを持つことが許されるのか!と衝撃を受け
こころの豊かさというものを知り、
いろんな人達と関わる中で
物事にこだわりすぎない
空のこころが
こころの平穏だと知って、
他の地域の人達よりも
戦争と平和について
たくさん考えてきたつもり
だったけど、
それらの
核心だと思っていたことは
実は表面的な部分だった。
長い人類の歴史の中で、
人生をかけてこころの平穏を追及してきた
多くの人々が
口を揃えて
言葉を変えて
もっと中心的なことを言っていたんだ。
潜在意識の浄化、
無我夢中、
無意識に対する自我の支配の確立、
意識と無意識を包括した全体性に向かう自己実現、
潜在的可能性の実現傾向、
などなど…
ババジのヨーガ、
お釈迦様の仏教、
フロイトの精神分析、
ユングの分析心理学、
ロジャーズの人間性心理学、
…
まだまだいっぱいあるけれど、
向かうところ、言ってることは
皆同じことだったりする。
おおよそまとてめ言うならば、
身体を持つ意識体として
「身をまかせて感じる自己」が
各々の感じる暮らしを営むこと。
それは
身をまかせて感じる自己は
「全体」でもあるから
和合した暮らしとも言える。
これが「平和」というんだね。
この「身をまかせて感じる自己」に
氣付けて
実際に向き合うことになるのは
それぞれの人生で
なにかしらのキッカケがあるのかもしれない。
私の場合は
病をきっかけに体感に耽って、
だな。
本当は
多くの人が
氣付いてはいる。
数字を合わせるために
持つ自己を抑えて
毎日働きに出ていることを。
多くの株主を持っている大企業まで
数字合わせのために、
無理な実態の矛盾を抱え
帳尻合わせをしている。
何かがおかしいと
従業員は思っていても、
数字の上に立って
私達は生活しているから
現状維持が一番安定していると
皆判断する。
人はひと、自分はじぶん
なのだけど。
さぁ、
どのように生活するのが
良いのだろうか?
そんなことを感じながら
朝のご挨拶をしていると、
石鎚の御霊は
「資源はかわらない」
そうおっしゃったように感じた。
資源は変わらない。
空想する価値に
拘っているにすぎない、
ということなんだろう。
それぞれに持っている
身にまかせて感じる自己は
変わらない。
生きる為に必要な
水や食べ物も存在自体変わらない。
私にある資源を
必要としている人に分けて、
私に必要な資源を
何方から分けていただく。
この「お陰さまでのこころ」も
変わらない価値だ。
この変わらない当たり前のことに
フォーカスしていくことが
暮らしのヒントに
なるのかもしれないね。
それと、
桃の花が可愛らしいことも
水仙の花の美しいことも
これも変わらないことだな。