僕が奄美に入ったのは2012年12月26日で、この銃撃犯が沖縄で米軍のサブコントラクターの仕事を辞めるのが翌日の27日である。これはCIAの工作員が僕と彼の両方を知っていることを意味している。それから奄美を南下して最終的に沖縄本島に入るのは1月になってからだが、奄美では外国人のスパイはほとんどいなかった。

 

 冬の奄美は観光オフシーズンで、観光客がほとんどいないため、外国人が紛れられる隙間はほぼなかった。里帰りの人たちは沢山いたが、観光客ですら、すぐに見分けが付く状態であった。船で移動する中で一人だけ外国人を見掛けたが、その一人だけだった。

 

CIAのアセットも奄美に潜っていたが、ほとんどの工作は警察によって行われていた。ただし、警察にしても奄美の島々には十分な公安職員がいないため、鹿児島の本部から送る必要が出てくる。そのため、警察官やその他の役人ですら現地に紛れるのはほぼ不可能な状態だった。

 

 一方で、沖縄本島は人口が多いだけでなく、アメリカ人もいっぱいいる。紛れるどころではなく、誰がスパイかを見分けることすら難しい。それに加えて、沖縄本島に入ってから、感情が本当におかしくなり出していた。奄美でも電波操作は継続されていたのかもしれないがほぼ記憶はなく、それに対して沖縄本島からは精神状態が急速に悪化した。

 

 とは言え、電波操作がはっきりした形を持ったのは北海道に行ってからである。最初は声が聞こえ、それから体が操作されるようになった。最終的に彼らの工作に落ちることはなかったが、時々、強い恐怖感に襲われていた。もちろん、それは電波操作によって恐怖を感じさせられていたという側面もある。

 

 それが2週間ほどして落ち着き、それから北海道中を車で移動し始める。この頃頻繁に行われていたのが事故工作で、それはいろんな方法があった。電波で完全に体を操作して、ハンドルを指一本で操作しなければならない状況に陥ったり、強烈な痛みが走って気絶しそうにもなった。その後、ゴールデンウィークの頃にまた電波工作が強くなり、ボロボロになりながら毎日を暮らしていた。しかし、6月頃には彼らは事故工作も、僕を落とすのも諦めるようになる。そして、7月に北海道を離れる。

 

 このタイミングは丁度、この銃撃犯が工作を受け始める時である。彼が海軍ヤードで銃撃を実行するまでの三ヶ月間、超長波の被害を受けていたと言っており、それはこの6月以降を指している。

 

つまり、僕が落とせなくなってからすぐに、この銃撃犯に対する洗脳が始まっている。これは僕を落とせなかった時のプランBだったのではないと思っている。このような工作を行ったために、電波操作という危険な技術が知れ渡ってしまい、工作員側がその公表を避けるためには、違うレベルの工作をする必要があった。その一つの社会工作として、スパイは海軍ヤードの銃撃事件を引き起こしたのではないかと思っている。

 

 この関係は確実とは言えないが、僕の工作を実行したのと彼の洗脳を担ったのは同じCIAのチームである。