國松長官銃撃犯隠蔽工作の事実関係を振り返ると、元々、公安が捜査を担当する話ではなかったが、当時の警視庁刑事部長であった石川重明がそのように要求した結果、警視庁公安部の管轄のテロ事件として扱われることになった。

 

 彼は公安の裏組織を担当する裏理事官経験者である。1944年生まれで司法試験に合格した後、1967年に卒業するが、WIKIによると、それは東京大学法学部の公法コースで、卒業と同時にもう一度学士入学し、今度は1968年に私法コースを卒業し警察官僚になる。

 

 この経歴は優れており、23歳で司法試験に合格したものの、官僚になるために再入学したと考えられる。と言うのも、司法試験と国家公務員試験は時期が重なるために両方の勉強をするのはさすがに困難であり、そのためにもう一度学生になって上級試験を受けている。

 

 彼は1999年に官房長になっているが、そこからは警察庁内部のポストは上がれず、2002年に警視総監になる。

 

 何度か書いたように、2000年当時の警察庁トップファイブのうち3人が入院し、2人がそのまま退職した。入院しなかったのは当時の長官と石川重明だけである。つまり、彼は電波工作の対象外であったが、それは彼が電波工作を知っていたからだろう。

 

 彼は裏理事官であった時期に電波工作に関わっているはずであり、また裏工作ラインの幹部官僚として、それ以外の多くの工作にも関わっているはずである。そして、それは彼が長官銃撃事件の隠蔽とオウム逃亡犯工作に関わっていた事実と平仄が合う。

 

 しかし、電波操作が利用されたものの、彼はポストが上がれず、警察庁長官になったのは入院から復帰したNO2の佐藤警察庁次長であった。基本的に、警察庁長官は次長から繰り上がり、この時は例外が起こらず、石川重明は転出して警視総監になった。警視総監は警察全体の序列の中ではNO2だが、警察庁本庁内部の序列からは外れることになる。

 

 この時に、次長になったのが漆間巌であり、もう1人の電波工作関与者である。そうなると、裏工作ラインは何らかの理由で漆間巌を選好し、石川重明を選ばなかった理由があるはずである。