自分の父親は共産党員だが、自分は共産主義者でもなければ左翼ですらない。そもそも中学生の間に共産主義は根本的に間違っていると思っていた。彼らはそこに完全な自由があると主張するが、共産主義や社会主義のシステムで自由が達成されたことはなく、それは今後もあり得ない。

 

これらのシステムにとって個人の自由は社会安寧の敵であり、彼らの唱える自由は支配的な考え方に追随する自由を指している。それは単なる不自由でしかない。

 

 自分のようにかなり若い時期から共産主義に対して根本的に反対している人は極めて少なく、自分はかなり筋金入りの資本主義、自由、民主制度の信奉者である。ただし、共産主義が根本的にどんなものか理解できていたのはずっと赤旗を読んでいたからでもある。

 

共産主義には反対であるが、それでも自分には拒絶反応のような左翼アレルギーはない。それは自分の周りに小さい頃から共産党員がいたからである。共産党のイベントには何度か行ったことがあり、あまり悪意のある共産党員を見たことがないので恐怖も拒絶感もない。

 

ただ単に、彼らの主張している最終目標では世の中の問題が解決できないだけでなく、世の中がおかしくなると思っているだけであって、それは単なる主義主張の差であり、それ以上のものではない。

 

 だからこそ、自分には左翼の顔が実は見分けられた。そんなことは今まで考えもしなかったが、警官の顔の見分けが付くようになってから、左翼の顔も見分けられることが分かった。それはある意味ナチュラルであり、ちゃんと思い出せば昔から自分の周りにいた人でも、誰が左翼かは見分けられることが分かった。

 

 自分は一般的に左翼には敵意はない。その考え方では世の中の問題が解決できないと思っているだけであり、ある意味、彼らの中には善人も沢山いる。ただし、左翼過激派は腐っている。ここは重要な点であるが、彼らが暴力を利用できるのは暴力的革命を志向しているからである。

 

 暴力的革命を否定すれば暴力は利用しない。それは全ての宗教的なテロリズムのテーマと同じである。宗教的なテロが存在するのは、その教義の中に、あるいはその教義の歪んだ解釈の中に、暴力を肯定する要素があるからである。

 

つまり、暴力的革命を是認する全ての活動家は危険である。それは彼らが彼らの理想や目的を達成するために暴力を行使することを厭わないからであり、その結果として誰かが死んでも必要な犠牲と認識される。そして、ほぼ全ての新左翼は暴力的革命が念頭にあり、それ故に彼は必然的に過激化する。

 

 それに対して、自分は古典的自由主義者であり、ロックやハイエクの系統の考え方を信奉している。信奉すると言うと教義に近くなるが、古典的自由主義はほぼ純粋に資本主義、自由、民主制度、立憲主義を意味していて、個人の考え方の内実には立ち入らない。

 

つまり、教義には近いものの純粋に制度をどうするかの問題であって、また、その制度に対しても固定的な解があるとも考えていない。結局、固定的な解がないと思っているからこそ、個人の自由が必要だと考えている。

 

 これらの考え方は左翼過激派が否定する全てである。そして、権威主義者の権力を否定するものである。そもそも民主主義が成立している社会において暴力的な政権打倒を目指す必要性は全くない。また、自分はそのような独裁的な権力を構築しようとする考え方自体を自分は否定しており、本質的にそれら2つのグループから最も遠いところにいる。