久しぶりに非実際的なことも書いてみたいなと思ったので、社会科学的思考について議論してみます。


自然科学も社会科学も科学という名前が着いているので、基本的には、同じような科学的発想をします。ただし、自然科学と社会科学には大きな差があって、それは再現性が担保できないことです。社会では、過去にあったことが全く同じ形で、将来に再現されることはないということです。似たような形で再現されることはあると思いますが、数学の数式のように全く同じ結論が繰り返し訪れるということはないです。


とは言え、社会科学も議論を科学的にするために、一定の方法論があります。
基本的には、
デュルケムの思考法
ポパーの反証可能性
ウェーバーの目的合理性・手段合理性
になります。


デュルケムの思考法というのは、仮説化>実証>再仮説化のループで成り立っていて、その流れの中で最終的な結論を導き出すものです。これはアインシュタインの思考法と全く同じもので、そういう意味では、これこそが科学的な思考法の源泉なのかもしれません。


社会科学に独特なのは、もしかすると、ポパーの反証可能性なのかもしれません。仮説化>実証>再仮説化>実証>・・・・・・>結論という形になると、科学としては完結しますが、社会にはそういう美しい答えが存在するわけではないので、常に、その結論が正しいかどうか吟味される必要性があり、その可能性が残されている必要があります。それが反証可能性ということになります。


その反証可能性が成り立たないと、議論がドクマティックなものになってしまい、社会においては、それは宗教と化してしまいます。つまり、最早、科学ではないということです。


ウェーバーの目的合理性・手段合理性という話は、目的が合理的か手段が合理的かの議論を峻別するということです。直近に待機児童対策の話を書きましたが、これを例に取ると、少子化が是か非かと議論するのが目的合理性の話で、少子化対策に待機児童対策が資するかどうかというのが手段合理性の話になります。もちろん、手段のツリーはもっと下まで連なっていて、上位の目的に対して、それぞれ合理的かどうかという議論は出来ます。


逆に上に上がって行って、少子化が是か非かという議論になると、日本がどういう国であるべきかという話に直結します。それ自体が科学的議論に馴染まない訳ではないですが、ほとんど思想の議論になってしまいます。思想の議論をすることが間違っているということではなく、目的合理性と手段合理性は峻別する必要があるということです。


そして思想の議論と言うのは神々の闘争という話になります。