ちょっとの間、家を空けてました。戻ってきたので、もう一度、ブログを書き始めようと思ってます。

何を書こうかなと思ったのですが、時事ネタは長いのしか思い浮かばないので、ちょっと違うのを書いてみます。


テーマは「株式マーケットに中国の故実は使えるのか」。儒学は使えると思えないので、検討対象外ですね。一番使えそうなのは兵法系のものですね。それで孫子・六韜・三略を読んでみました。でも、何かしっくり来ないんですね。


何が良くないかというと、相場は戦争ではないんですよね。明確な相手がいないので戦争のしようがない。昔の相場だとありえたかもしれないですよ。戦前のように、貸し株の制度がなくて無限に信用売りができる状態だったら、財力にものを言わせて仕手相場は作れるかもしれないです。大本山になんとか将軍がいて、それが兵糧を供給し、相手方には違う相場師がいて大勝負をする。それで最後に解け合いで妥結する、みたいな大時代的なときはありえたかもしれないですね。


今では考えられないですね。二つの大きな差があって、一つは空売りが無限にできるということはないことですね。株式相場だと貸し株の制度があるので、株を借りて来ないと空売りができないことです。空売りが無限にできる相場なら、例えば、商品マーケットとかなら、今でも財力にものを言わせて相場を動かしている人たちがいます。銅相場や天然ガスの相場では時々見られます。


もう一つは相場の流動性です。銅相場や天然ガスでは一部の投機家の動きで価格が動きますが、これが原油や金になるとほぼ見られなくなってきます。一部の人で動かすには大きすぎるんですよね。株や為替になると、それこそ一部の人だけではほぼ価格は動かせないですね。超短期の期間における小さな変動なら起こすことはできるかもしれないですが。そういう意味では、仕手銘柄と呼ばれる小型株でなら今でも相場を大きく動かすことは可能かもしれないですね。


話を戻すと、相場は戦争ではないので、兵法系のものは使えないのです。戦争をするときには、相手がいて、戦争をする目的があって、戦略があって戦術があって、戦争をするための組織があります。相場には何がないかというと、相手がいないことと組織がないことです。だとすると中国の数千年の歴史は相場には一切役に立たないということになります。


僕が目にしてないだけかもしれないですが、中国に相場の史実を語ったものを見たことはないです。ふと思ったのですが、相場に値段形成を任せるというのは中国では受け入れ難いのかもしれないですね。共産主義や社会主義だからということではなく、価格の決定権を相場に任せるというのは、ある意味、国家の権威が一つ失われることなので。人治の中国において、権力者が自分の権威を完全に捨てるというのは考えにくいです。


そういう意味では、日本の米相場は開明的ですね。17世紀には成立しているというのはかなり先進的です。そう思うと、日本と中国には国のあり方として根本的な違いがあるような気がします。


今は中国にも商品相場も株式相場もあるので、これがどうなって行くかは楽しみですね。為替にせよ株にせよ、中国政府は多くの制限を設けていて、更に政府が干渉できるような状態になっていますが、これが今後どうなっていくか。おそらく中国はある程度自由化を進めていくと思いますが、政府が介入できる制限は残すと思います。それが中国というものだと思います。そういう意味でも、相場には中国の故実は使えないのだと思います。