今日はフィリピンのマニラにいます。2月の後半はフィリピンの小さな島にいたのですが、マニラに戻ってきました。もうすぐ違う南の島に帰ります。それはともかくフィリピンで思ったこと。ここの貧困は厳しいです。そういう目的で来たわけではないですが、貧困さは目に付きます。それこそ絶対的貧困のレベルに暮らしている人が多いように見えます。ちなみに、絶対的貧困とは一日の所得が1ドル以下のレベルのことを指します。そんな人がフィリピンにはいっぱいいます。

ただ、彼らの多くはファミリーに助けてもらって生活しているようです。7-8親等までがファミリーのようで、その中に稼ぎのある人がいたら、そこに生活費を分けてもらいに行くようです。助け合いと言えなくもないですが、たかりとも言えなくもない。フィリピンの人たちの考え方なので、それが良いか悪いかを議論しても仕方ないことだけれど、僕はそこまで面倒を見るのかと思うと辛いですね。日本人は少し違う考え方をしてるのかもしれないですね。

とは言え、日本でも助けて貰って生きてる人は結構いるでしょうね。両親と一緒に住むという形態もその一つでしょうね。あるいは仕送りを貰っていたり。さすがに7-8親等先の人から助けてもらうのは稀でしょう。もし回りに誰も助けてくれる人がいなかったときはどうなるのか?日本ではセーフティネットの最後の要として、生活保護があります。この公的扶助の制度は必ずしも一般的ではないですが、先進国では良く見られる形態の一つです。だから、制度上、日本では絶対的貧困に陥ることはないです。

ただ、運用上、必ずしも100%の捕捉率ではないです。要するに、絶対的貧困により近い人たちは存在するでしょう。それは制度設計上の問題とも言えますが、100%の捕捉率にするために政府が追加的に出すコストを考えると、国家としては社会に依存する必要はあると思います。例えばですが、そういう生活保護の制度を知らない人もいれば、どう手続きをするかも分からない人もいるだろうし、あるいは、運用上、地方自治体が厳格になりすぎているということもあるでしょう。ただ国家というのは100%を達成できるものではないので、社会の側でそれをサポートする必要があるでしょう。そうでないと、税金がいくらあっても足らなくなってしまいます。

まったく関係ない話ですが、日本の行政に100%を求めない方が良いと思います。99%の達成度のものと100%の達成度ではコストに大きく差が出るときがあります。最終的なコストの掛り方が費用逓増になっていることがあるということです。1人の命は大事だと思いますが、国家が破綻するのはもっと問題です。一億総玉砕といのは正しい解決策ではないです。どのレベルで納得するかというのは難しいですが、行政コストはある一定水準を超えると費用逓増になるといことと、確率的な達成度を目指すべきで100%を目指さないという方向性を日本人が受け入れる必要があります。一人の日本人として心苦しいことはたくさんありますが、国家に出来ることには自ずから限界があるということです。

では、生活保護の必要性はどこにあるのか、と考えてみましょう。法治国家の日本において憲法は基本になる重要なものです。その規定の中では25条のプログラム規定が社会保障の根源の一つになるでしょう。つまり、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を国民が持っていて、それを国が保証するという形になっています。

それはそれで間違いないのですが、そもそも日本に公的扶助が導入されるのは戦後になってからです。戦前に公的扶助がなかったわけではないのですが、それは傷痍軍人の恩給制度や軍人寡婦の制度として存在していました。それが一般化して、公的扶助になるわけですが、そのときにイギリスに近い公的扶助の制度を導入しています。特徴的なものとしてミーンズテストが挙げられます。自力で生きるだけの資産があるのかないのかをチェックするということです。この制度は予算の制約があるので支給範囲者を限定すると共に、資産をチェックする際にかなりの個人的情報に踏み込まれるため、公的扶助の必要のない人をこの制度から遠ざけようとする意図があります。

要するに、出来ることなら働いて欲しいけれども、世の中には確かに働けない人たちもいるわけで、彼らを国家として救う必要があると。それが憲法に宣言されている内容で、ただその最低レベルの生活というのは時によって変わっていきます。

では、そもそも、日本に生活保護の制度が必要なのかという議論は成り立つと思います。日本国憲法は不磨の大典ではないので、ためになる議論はすべきだと思っています。ちなみに、僕の意見としては生活保護の制度は必要だと思います。もちろんレベル間は重要ですが、日本人として、同胞が本質的な貧困にあえいでいるのは忍びないです。それ以上の理由はないです。人間とは何かという哲学的議論をしても良いですが、そんな理由で公的扶助は正当化できるものではないと思っています。それよりも、苦しい人たちを国家の予算で救ってあげることは大切で、それこそが国家の国家たるゆえんの一つだと思っています。そう思っている人が圧倒的に少なくならない限りは、今の制度は続いていくのだと思います。

この制度のおかげで、日本にはほぼ絶対的貧困下で暮らしている人はいません。ということは日本でいう貧困とは絶対的貧困のことではなく、相対的貧困のことを指しています。日本の相対的貧困率は高いほうだと思います。分かりやすく言うと、苦しい生活をしている人の数が多いということです。ただしこれは格差と呼ぶのが正しいかどうかは分かりません。どちらかと言うと、ロングテールに近いものだと思います。昔は平均値あたりで暮らしていた人が多かったのに、気づいてみると、平均値の半分以下で暮らしている人の数がぐっと増えたということです。それは高額所得者が増えたということを意味していません。あくまでも低額所得者の層が厚くなったということです。

その中で何が一番問題かということですが、ワーキングプアが一番の問題だと思います。現在では一部是正されていますが、労働をしているのに生活保護よりも低い所得水準で暮らしている人たちがいました。これはとても問題です。物質的なものが、つまり金銭が、労働をする理由というわけではないですが、重要な要素であることには変わりなく、その意味で、労働している人たちは金銭的に生活保護の受給者よりは恵まれている必要があります。

問題はどれくらい恵まれている必要があるのかということですね。そこに最低賃金の正当性が出てきます。どのくらいの差がいいのかは政治で決定するしかないことですが、そのレベル感こそが最低賃金の問題であって、最低賃金は平均1000円を目指すと言う民主党の意見は議論として全くおかしいものです。国民を愚弄しているのかと疑ってしまいます。

ということで、最低賃金1000円に意味はないと思っていますが、それでも妙案だと思います。また次回に続くということで。