彼は、ひどく緊張していた。
慣れないスーツに身を包み、暖かいコートを着こんで家を出たのは1時間前のことだ。
現在、彼は電車の中で、今日のために必死で考えた言葉を見直しているが、どうも集中できないらしく、その度に息を大きく吸い込んでは吐いてみたり、無意識に貧乏ゆすりしたりしている。
* * *
彼のトレードマークであった金髪は、1週間前に真っ黒に染め直された。
黒髪もなかなか悪くない。彼は思った。
これから自分も社会の一員となって、働くのだ。就活は、その第一歩だ。
そう思うと、自分が誇らしくさえ思えた。
金髪は、大学生のうちは思い切り遊ぼうと決めていた彼の意思表示であった。その意思表示通り、彼は苦労して入った国立大学にも関わらず、サークルに明け暮れた。飲み会ではかなり無茶もした。煙草もサークルで覚えた。
就職までのモラトリアムを、彼は充分に楽しんだ。それで満足だった。
それなのに、今日、家を出る直前に鏡に映った自分を見た時は、まるで違う気分に襲われた。顔は白く、生気を失った死人のように見え、ワックスを付けていない髪とスーツが黒々して見えた。サークルにのめり込み、無茶をした自分は、微かな匂いも気配も感じられなかった。鏡を見つめているうちに、自分が底無しの闇に沈んでいくように感じられ、どうしようもなく息苦しいような気分になった。
身体の中心が、きれいにくりぬかれたようだ、と彼は思った。
* * *
彼の心臓は会社を出た後もまだ高鳴っていた。家を出るときに感じた息苦しさは消えていた。面接では周りの人間がひどく大人びて見え、自分の話し方だけがいやに拙く感じられたが、それでもとりあえず初めての就活をやり遂げたという達成感の方が上回っていた。
ただ、一点だけ、面接中に不可解な質問をされた。それは何気なく、しかし、確実に機会を窺って発せられた言葉特有の予感を漂わせていた。
「きみたばこすうひと?」
想定外の質問に、彼は一瞬、面接官の言葉を的確な漢字に変換することができなかった。
彼は「はい、まあ…」とだけ答えた。何故あんなことを訊かれたのだろう。身体からは煙草の臭いはしなかったはずだ。
しかし、その短いやりとりは、真っ白なシャツについたシミのような、無視できない存在感で彼をわけもなく不安にさせた。シミは時間が経つにつれてますます大きく、黒くなった。
そして、彼の予想は的中することになるのである。
慣れないスーツに身を包み、暖かいコートを着こんで家を出たのは1時間前のことだ。
現在、彼は電車の中で、今日のために必死で考えた言葉を見直しているが、どうも集中できないらしく、その度に息を大きく吸い込んでは吐いてみたり、無意識に貧乏ゆすりしたりしている。
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彼のトレードマークであった金髪は、1週間前に真っ黒に染め直された。
黒髪もなかなか悪くない。彼は思った。
これから自分も社会の一員となって、働くのだ。就活は、その第一歩だ。
そう思うと、自分が誇らしくさえ思えた。
金髪は、大学生のうちは思い切り遊ぼうと決めていた彼の意思表示であった。その意思表示通り、彼は苦労して入った国立大学にも関わらず、サークルに明け暮れた。飲み会ではかなり無茶もした。煙草もサークルで覚えた。
就職までのモラトリアムを、彼は充分に楽しんだ。それで満足だった。
それなのに、今日、家を出る直前に鏡に映った自分を見た時は、まるで違う気分に襲われた。顔は白く、生気を失った死人のように見え、ワックスを付けていない髪とスーツが黒々して見えた。サークルにのめり込み、無茶をした自分は、微かな匂いも気配も感じられなかった。鏡を見つめているうちに、自分が底無しの闇に沈んでいくように感じられ、どうしようもなく息苦しいような気分になった。
身体の中心が、きれいにくりぬかれたようだ、と彼は思った。
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彼の心臓は会社を出た後もまだ高鳴っていた。家を出るときに感じた息苦しさは消えていた。面接では周りの人間がひどく大人びて見え、自分の話し方だけがいやに拙く感じられたが、それでもとりあえず初めての就活をやり遂げたという達成感の方が上回っていた。
ただ、一点だけ、面接中に不可解な質問をされた。それは何気なく、しかし、確実に機会を窺って発せられた言葉特有の予感を漂わせていた。
「きみたばこすうひと?」
想定外の質問に、彼は一瞬、面接官の言葉を的確な漢字に変換することができなかった。
彼は「はい、まあ…」とだけ答えた。何故あんなことを訊かれたのだろう。身体からは煙草の臭いはしなかったはずだ。
しかし、その短いやりとりは、真っ白なシャツについたシミのような、無視できない存在感で彼をわけもなく不安にさせた。シミは時間が経つにつれてますます大きく、黒くなった。
そして、彼の予想は的中することになるのである。