客観的証拠と「客観的証拠」~鹿児島強姦事件控訴審無罪判決を受けて | 向原総合法律事務所/福岡の家電弁護士のブログ

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鹿児島市の強姦事件について、控訴審で無罪が出ました。
その事案・記事詳細は、毎日新聞 1月12日(火)13時43分→こちらをご参照ください。

(なお、本件については、毎日新聞
「証拠を都合良く評価…弁護側、ずさん捜査を批判」→リンクはこちら に、本件の争点の整理表があって見やすいのでこちらもご参照ください)

つまり、本件では、被告人と被害女性との間で何らかの性的接触があったこと自体は認定している。
けれども、体内から検出された精液のDNA型が合わないというのは、少なくとも強姦の事実を否定する客観的証拠です。
これが出てきた時点で、少なくとも、強姦については合理的な疑いを入れると言わざるをえない。本件の控訴審判決は、結果的にそうなったわけです。

ただ、司法関係者の一員として、一審の結論(有罪)に至るプロセスは、以下の点で、厳しく見るべきであると感じています。

①なぜ「簡単に出た」DNAが、捜査段階で鹿児島県警が行った鑑定では「精液は確認されたが抽出されたDNAが微量で型の鑑定はできなかった」で済まされていたのか。
 後に「簡単に出た」と再鑑定時の鑑定人が述べているところからして、捜査段階で、捜査方針に不都合な鑑定結果が出たから「鑑定はできなかった」としたのではないか、という疑いを、一審裁判所は持つべきであった。
②一審判決において、胸の付着物のDNAがあるにせよ、路上での暴行なのに被害者にそれに沿ったケガなどがないのに、当該DNAの試料となった最重要証拠である精液を被告人の精液と評価したのは、証拠の評価方法としてあべこべであり、問題がある。

これらの問題点に共通するのは、客観的証拠の評価方法です。
そもそも、自分は、捜査機関側の問題と、一審裁判所がそもそも、”客観的証拠から固めろ”とは特にP修習で口を酸っぱくして言われたものです。
ただ、一方で、客観的証拠は、それに引きずられるので、ある意味「危険な証拠」ともいえます。極論すると、捏造されたものがあると最悪であることは理解しやすいと思います。

わかりづらいのは、客観的証拠に評価的要素が入るときです。
こうなると、必ずしも「客観的」ではなくなります。
こういう、評価的要素の入るものを「客観的証拠」とここでは呼びます。

このような「客観的証拠」は、その評価的要素自体を疑うべきことになります。
弁護人も同じ姿勢を取るべきだと思います。
その意味で、出てきた証拠が、客観的証拠なのか、「客観的証拠」かの見極めが重要となってきます(それによって主張が変わる)。

一審では、最重要証拠である精液が、他の証拠(被害者の胸の付着物)を使った「客観的証拠」に成り下がっているのに、結果的にそれを用いて有罪認定しているわけですが、本来ならば、「客観的証拠」にすぎない精液の鑑定方法について、どこまで議論が尽くされていたのか、という疑問が拭えないところです(なお、自分は、一審が簡易鑑定のみを用いたのか、鑑定請求まで行われた(これが却下されたりした)したのかは知らないのでこのあたりご存じの方は教えて下さると助かります)。

要は、一審では、精液の鑑定方法について捜査機関の言いなりになってしまっている、ということになります。
結果的にⅰ 胸の付着物(被告人のDNA検出)→ⅱ 精液(DNA出なかったがⅰから推認)という過程から、ⅰ+ⅱで有罪、というプロセスになってしまっているのですが、こうなると「客観的証拠」があたかも客観的証拠として用いられているようなもので、完全に引きずられた判決だなあと思うわけです。

上述のように、客観的証拠は、こうなると「危険な証拠」に変身してしまいます。
昔の、精度の悪い時代のDNAと同じです(cf.足利事件)。

重複しますが、客観的証拠は、本当に客観的証拠なのか、「客観的証拠」にすぎないのか、は、十分に見極められるべきですし、「客観的証拠」にすぎないときは、評価方法を疑う、という姿勢が、裁判所には強く求められるのではないでしょうか。

もちろん、再鑑定時に「簡単に出た」DNAを、鹿児島県警がどうして「
DNAが微量で型の鑑定はできなかった」という鑑定結果を出したのか、という点についても、厳しく追求されるべきとは思いますが、これは本稿のテーマではないので、ここでは割愛させていただきます。