法曹養成問題~論説委員レベルになると認知が歪む原因はコレ! | 向原総合法律事務所/福岡の家電弁護士のブログ

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東京新聞というと、司法改革・法曹養成制度問題に対しては懐疑的な記事をよく出すイメージなのですが、論説委員クラスになるとどうしてこうなっちゃうんでしょうね。

法科大学院の「質」とは

若手弁護士と話をする機会があった。その人は法科大学院を修了し、司法試験に合格した。「優れた研究者らに法曹のベースをつくってもらいました」-。その言葉こそ、大学院教育の核心だろうと思った。

 「毎日、授業は議論をして深めていくのです。対話形式のソクラテス・メソッドですね。一問一答ではないので、思考の整理ができます。学生同士で自主ゼミもします。残った疑問点を教授のところに持っていきます」

 大学在学中に予備試験ルートを使って司法試験に合格する「特急コース」に注目が集まっている。経済的に大学院に進めない人のための例外措置なのだが、早く法曹になれるので、まるで“主役”視されている現状だ。おそらく司法試験に出る科目だけを勉強し、受験対策をする。そんな勉強法に比べ、大学院での授業がもっと注目されていいと思う。

 「大学院で勉強した労働法や倒産法などは弁護士になってから実務でよく使います。私の学校では、より実務的なビジネス・ローのコースもあって、著名な弁護士にM&Aや知的財産法、独占禁止法などの最先端を学べます。最短距離で勉強している人とは、基礎の『質』が違うと思います」

 ただし、学校の「質」もある。充実した授業ができない法科大学院は淘汰(とうた)される運命にある。法律家を育てる専門機関がより信頼度を増すことを望む。 (桐山桂一)

 司法改革・法曹養成制度改革に懐疑的な記事をよく掲載する東京新聞でさえ、論説委員の手にかかると、コレなわけです。
 では、この記事にかぎらず、論説委員(社説)レベルになると、なぜ、こうした、法科大学院ヽ(´ー`)ノマンセーな偏向的な報道がまかり通ってしまうのか。
 いつも不思議に思ってきました。それで、自分なりにその原因を考えてみました。

1 そもそも、書き手側において、法体系や司法試験制度をまともにわかっていない。
 この記事でいうと
「大学院で勉強した労働法や倒産法などは弁護士になってから実務でよく使います。私の学校では、より実務的なビジネス・ローのコースもあって、著名な弁護士にM&Aや知的財産法、独占禁止法などの最先端を学べます。最短距離で勉強している人とは、基礎の『質』が違うと思います」
 というインタビュー部分(以下この部分を「上記インタビュー部分」といいます。)がそうです。
 我々の世界には、入り口に、司法試験というものがあり、試験科目でしのぎを削る。
 そして、試験科目は、法解釈学の基本中の基本です。
 これをマスターしないと、他の法令の解釈能力だっておぼつかないと思います。
 例えば、この引用部分であげられているM&Aについては、民法・会社法の基本的な知識と解釈能力がないと絶対にまともにできません。
 このことがわかっていれば、上記インタビュー部分に欠陥があることは見抜けるはずです。ところが、これを無批判に掲載してしまった
 すなわち、「M&A」とか「知的財産」とか、いかにもな言葉に惑わされ、それらが
法体系のなかでどういう位置づけにあるかを理解していないからこそ、こういう記事を、疑問なく書けるのだと思います。

 実務法曹は、基本的な法体系を学んできているので、上記インタビュー部分の欠陥にピーンと反応します。ここで反応しないという発想がないせいで、私のような実務法曹からすると、当該書き手がこのような記事を無批判に書くことが非常に不思議に思えるのです。
 が、当該書き手が、法体系についてまともにわかっていないという前提に立つと、このことは、説明が付くし、合点がいくところなのです。

 そして、当然、読み手側は素人さんですから、「うんうん、なるほど、そうだそうだ」になりやすい。そうして「世論」が形成されるわけです。
 こうして形成される「世論」は、我々専門家の知見には反するものですから、科学的には間違った内容です。
※もっとも、我々は文系ですから、科学的に間違っていたとしても、理系的科学的な誤りと異なり、直ちにはっきりとその結果が出るわけではありません。理系的科学的な誤り、例えば、静脈と動脈を取り違えても大丈夫だよという手術法を編み出した人がいるとします。そしてこrを「そうだそうだ」で受け入れて、医師がそのとおり手術した場合、患者はただちに死ぬという、直ちにはっきりとした結果が生じます。
 文系の場合、こういうことは起きにくいんですよね。ただ、じわじわと、間違えたことによる結果は生じます。それが、
 「法科大学院に行く人(法曹志願者)の激減」
 です。
 したがって、こんな、法科大学院は素晴らしい教育をしてるんだ的な「ステマ」をやっても、法科大学院に行く人は一切増えることはないと断言できます(間違えたことによる結果の現れ)。

2 権威主義
 ◯◯大学教授
 △△大学法科大学院教授
といった肩書は、普通の人から見たら、「おおっ、この人は法律にものすごーく精通しているんだろうな、スペシャリストなんだろう」と思うのだろうと思います。
 すなわち、そこには、市井の弁護士にはない「権威」があります。
 法科大学院制度は、まさしく、その中身ではなく、文科省がお墨付きを与えた「大学」が運営し、「教授」がその中核を担うという意味で、「権威」の巨塔です。
 しかしながら、私のように、法学部に行き、大学院に行き、その中身を見てきた利用者にとってみれば、そのような見方には相当な違和感があります。
 そもそも、大学や学者さんの本来の職務は、教育ではなく研究です。
 そして、法律学の世界では、こうした学術部門と実務との乖離が特に
激しいとされています。たとえば、法学部の教授さんに、警察に拘束されている被疑者の接見に行って適切な対応をしてください、といって、必要な対応が出来る人は、多分、ほぼいないと思われます。
 これは、どっちがエライというもんだいではありません。ただ畑が違うということです。
 
 ところが、教育をメインの仕事としておらず、かつ、実務にも明るくない人が、「実務」「教育」を担わされる、という不思議な行為が、法科大学院のなかでは行われているのです。
 喩えて言えば、自動車教習所なのに、教えている人は無免許という状態です。そんな自動車教習所はありませんよね。ところが、法科大学院では、(法曹)無免許の教員が大半なのです。

 にもかかわらず、これに疑問が呈されないのは、ひとえに、大学や教授という名前の持つ「権威」に惑わされているからです。
 そして、上記のような偏向記事の書き手側も、「権威」があることで、その内容が担保されているという先入観があるために、その「権威」の中身をきちんと検証せずに記事を起案しているものと思われます。

3 結語
 上記1については、要するには「法科大学院ヽ(´ー`)ノマンセー」な側の意見しか聞いていないせいだと思いますが、それでも、基本的な法体系等について少しでも造詣があれば、上記インタビュー部分に対してはアンテナが反応して、その欠陥に気づくはずです(①)。
 もし気づく能力に自信がないのならば、法科大学院制度に対する批判はこれだけ出ているのですから、対立する意見についても取材するのが、公平なジャーナリズムとしてのあり方だと思います(②)。
 したがって、少なくともこの記事にについては、上記①②のどちらかを備えていれば、このような記事を書かずに済んだのに、両方を怠ったために、このような恥ずかしいことを書いてしまったということになります。
 そして、このことは、上記記事のみならず、法科大学院ヽ(´ー`)ノマンセーな記事全般にいえることであり、ジャーナリズムとしてやるべき基礎的な作業を怠っているからこそ出てくる記事なのだろうと思います。

 また、2については、「権威」に惑わされるという、これもまたジャーナリズムとしては恥ずかしいものです。
「権威」というものに対して常に疑問を持ち、批判精神を持って中身を具体的に検証する作業を怠り、「権威があるから中身は担保されている」という発想に堕するのは、ジャーナリズム失格というほかありません。

 今日は、私らしくなく、いつもよりも厳しく過激なことを書いてしまいましたが、報道機関のあるべき根幹部分について強い問題があるように感じたことから、このような書きぶりになりました。