しかし当時の関東の朝鮮学校学区は東京は別格で毎年東京大会というのがありその他関東の朝鮮学校は一切仲間に入れてもらえなかった。
同じ東京都下の三多摩第一、三多摩第二(現在の西東京第一、第二)さえも23区外と言う事で除外されていた。
関東の南端の半島に位置する千葉県の千葉朝鮮初中級学校(以下千葉朝中と記す)は東京と隣接しているにも関わらずに南関東なのに常に北関東大会や「東京を除いた関東大会」というわけのわからない大会に出場していた。
千葉朝中は検見川グラウンドが会場となるとき以外はわざわざ上野まで上がってそこから電車で群馬や茨城、長野とかまで行かなければならなかった。
ちなみに「北関東大会」は別名が「6.6節大会」(朝鮮少年団創建の日が6月6日)と呼ばれ千葉、埼玉、群馬、栃木、長野、新潟等の東京からハブんちょされた関東近辺の朝鮮学校の大会であった。
東京の朝鮮学校はそんな我々を「田舎者め」的な目で見ていたものである。
そして毎年必ず夏の中央大会の出場キップを掛けた予選が千葉朝中VS埼玉朝中だったのだ。
私が中2のときに習志野高校のサッカーグラウンドで行われた予選、
埼玉ちょ〜こえ〜
今でこそウリハッキョの子供達(私が見た限り関西は違うけど)試合中もウリマル100%だけど、
当時は日本語!
それもコワイ日本語!
日本人の悪口言う時だけウリマル100%!
先輩にパスミスとかしようものなら
「てめー!ぶっ殺すぞ!どこにだしてんだよ」
「てめ〜!後で裏こい!」
パス出すのも命がけ、
接触プレーなんかしたひにゃ素破(すわ!)!乱闘か!
みたいな、
相手校の先輩がボールを持って、こっちがタックル行こうとすると先輩が目で「お前、上等じゃねーか?」
ちょ〜こえ〜
あ、ちなみに私は補欠球拾いだったので試合には出てません、
試合前の練習でこっちのボールが埼玉の方に転がったのでこれ以上無いくらい恐縮しながら取りに行ったら
「おい、フベ(後輩)気をつけろ!」
ちょ〜こえ〜
その時の埼玉のキャプテンがあの人望豊かで誠実なコドグ先輩、
もうね、あの爽やかなコドグ先輩もちょ〜怖かった中の一人ですから、
先日来店してその時の話をすると「時代が僕達をそうさせた」と爽やかに笑っていましたが、「僕」って?「僕」なんてお上品な言葉はどこで仕入れたんでしょうか?
ちなみに千葉の先輩もちょ〜怖くて、我々は常に四面楚歌の中でボールを蹴ってました。
どっちか選べと神様に言われたら?
もうね、究極の選択、
ちなみに世界1怖かったのは東京第一の先輩、もうね、ゴリラ、ゴリラの集団、
おい、륙지(陸地)!済州島ナメんなよ〜
ちょ〜こえ〜マジで、
でもね、当時中2のヨン少年には微かな希望があった、
この試合で負けたら3年生は引退でトタンの苦しみを味わっている我々中2はその鉄の鎖から解放されるのだ!
「千葉負けろ」
中2の心の叫びである、
埼玉のエースが周先輩、
再三千葉ゴールを脅かす、
数年後に高校サッカー選手権で帝京が優勝した時のエース周選手のお兄さん。
結局1対0で千葉朝中が勝って中央大会へ、
我々中2の奴隷生活は1か月延長された。
高校野球で後輩達がスタンドから先輩達を応援する姿、あれ、絶対にウソでしょ!心の中では「早く負けろ、そしたら俺達の天下だ」ってきっと思ってるに違いない。
ちなみに当時の千葉朝中はそれまで無敗で関東では敵無しだったがその後の中央大会では東京チャンピオンの東京第二と東京第四と言う死のグループに組み込まれ2敗で大会を去った。
優勝東大阪、2位東京第二、3位東京第七、4位東京朝中
やはり東京には敵わないのか?
が、しかし次の大会
(翌年は台風で中央大会は中止、次の大会は我々の1つしたの学年)で千葉朝中は中央大会で優勝し初の全国制覇を成し遂げたのだ。
私よ記憶が正しければ当時、関東以北で東京以外のチームが中央大会で優勝したのは千葉の他には北海道だけだったのではないか?
知ってる人教えてください。
最近では天気予報の順番も東京、神奈川、埼玉、千葉の順、私の少年時代は千葉が3番手だったのに今ではBクラス落ち、高校野球も昨年花咲徳栄が優勝した埼玉に対して1975年習志野高校優勝以来無し。
埼玉朝中はサッカーも強いしバスケも強いし芸術コンクールでは金賞の常連だし当時を知る私としては感慨が深いわけです。
ちなみに私が中3の時の雑誌「조선중학생」(たしか1977年朝鮮中学生9月号)に「도꾜를 뺀 간또대회」(東京を除いた関東大会、大会名も最悪!せめてチャレンジカップとかチョルリマカップとかピオネールカップとか付けてくれれば良かった野に)記事に私が写っていたんだけど私以外誰も知らない。
しかし朝鮮学校も高校野球も高校ラグビーも高校バレーも大阪がいつも優勝してる感じなのになんで阪神だけはいつも違うんでしょうかねぇ?