咸鏡北道の吉州に住んでいた父方の祖父母及び姉達及び親戚達は朝鮮戦争の際に全員消息不明になった為に祖父母と言えば東京に居る母方のハンメ、ハラボジという事になったワケなんです。
全羅南道コフン郡出身のハンメは末っ子で幼い頃から姉さん達に可愛がられ「キューミニ」(おそらく귀여움이が訛って「かわい子ちゃん」的な意味)と呼ばれたそうな、
そんなキューミニが年頃になるや父親(ひいおじいちゃん)から今度あの人結婚せい!とハラボジを紹介されたそうな、
ハラボジは近所に住むおじさんみたいな人で背がちっちゃくてチンチクリンな感じで
え?マジ?!
無理無理無理無理無理無理無理無理‼️
って感じだったそうな、
当時の女性としてはキューミニは身長が164cmと高く当時の結婚式写真を見るとハラボジよりハンメの方が全然背が高いワケで、
解放前、
先に日本に渡ったハラボジからの再三の渡日の要請をガン無視したものの周囲から説得されようやくイヤイヤ日本に来たキューミニ、
キューミニの顔を見て嬉しくて嬉しくてパネーハラボジの顔を見るなり「アイゴ〜내팔차야(不幸な私)」と人生の悟りを開きキューミニはその後敬虔な法華経信者となるワケで、
私が初級部の頃キューミニは
昼ドラ「名も無く、貧しく、美しく」という、島かおりと「暴れはっちゃく」のお父さんが主役の大ヒットドラマを毎日欠かさず視聴していたのだがその時は必ず近所の「トンスのおばちゃん」が来ていて、
トンスの母親だから「トンスのおばちゃん」とみんな呼んでいたが「トンスのおばちゃん」の息子の名前は「ヨンス」なのになんで「トンス」なのか疑問である日聞いてみた、すると驚愕の事実が発覚したワケで、
「トンスのおばちゃん」はヨンスを産む時が初産でお産の時傍の看護婦さんの「キバってキバって!」という激励に思い切りキバりすぎてヨンスを出産すると当時に大の方も大量に排泄してしまい初子のヨンスは文字通りク◯まみれでこの世に出てきた為に以来「トンスのおばちゃん」は自分の息子の事をヨンスとは呼ばずどこでも「トンス똥수」と呼ぶようになったそうな、
なので地元では誰一人ヨンスとは呼ばずにトンスと大人になった今でも呼ばれているワケで、
そんな全羅南道出身者の2人の会話はハッキョで習う朝鮮語とはかなり違い全く聞き取れなかったワケで、
ただ記憶に残っているのはやたらと「ケロ」という言葉を2人とも連発していた事、
「クロニケロ」とか
「ラヌンケロ」とか
「モグンケロ」みたいな
慶尚道方言の語尾に来る「ゲラ」のようなものなのか?
当時銭湯に行くと洗い場の桶に必ず「ケロリン」と書いてあったけど、それを見るたびに「ケロ」を思い出すワケで、
郷ひろみのファンだったキューミニは松田聖子がひろみを捨て神田正輝と交際してる事をワイドショーで知ると聖子に対し激怒し
「アイゴ この公衆便所の様な女め!」
と何度も何度もディスっていたワケで、
そんな負けん気のキューミニも誰も都合がつかず1人で電車に乗って病院に行かなければならなくなった時だけはかなり不安だった様で、と言うのも当時の一般の朝鮮人女性は学校に通えず文字が読めなかったしかも異国の日本では尚更なワケで、
キューミニは駅の数だけの豆を握りしめて一駅過ぎると豆を袋に入れて豆が無くなったら次の駅で降りるというテクニックを編み出し無事帰還したワケなんですが、
当時朝大生だった私に得意げに語るキューミニが今も昨日の様に追い出されるワケで、
たまに車で身内で外食に行く時キューミニが言う
「アイゴ、忘れた、家まで戻って!」
「なに?財布?お金ならあるよ」と周り
「もっとタイジなもの」
仕方なく家に戻りキューミニが持ってきたものはというと
紛れも無い入れ歯だったワケで、
確かに大事だよね、
これないと食べれないしね、
そんな事を思い出したりしてたら
あっという間に秋分の日じゃん!
最近時の経つのが早い事といったら、
それじゃあ今日はこの辺で勘弁してあげる
バイビー‼️
80年代流行ったんだってば!
山下久美子とかよく言ってたし!
元布袋の奥さん