今のメラゾーマはない -4ページ目

今のメラゾーマはない

今のメラゾーマはないわ メラだ、メラ

今からちょうど1年前にNHKホールで行われた五十嵐隆のライブ『生還』。
当時俺は見に行くことができませんでした。
そして先日6月1日、つい『生還』のDVDがリリースされました。
昨日自分のもとにも届いて、部屋を暗くしてひとり鑑賞会を決行。
今回は拙いながら『生還』の感想を書きます。

まず、「syrup16g」ではないんですよね。「五十嵐隆」のライブなんです。
たいこもサポートメンバーという立場だった。
そうか、もうシロップは無いんだったと痛感する一方で
この日のためにたいこもマキリンも来てくれたんだと思うと胸が熱くなりました。

Rebornでライブの始まりを告げた時、誰もがその意味を考えたのではないでしょうか。
しかしながら、本当に五十嵐が生まれ変わったかのようでした。

『生還』の時、五十嵐の歌が上手くなっていたとレビューで聞いていたのですが
たしかに五十嵐の歌声はいつもと違っていました。
なんというか、すごくキレイな声だった。
ギターも、いつもライブで「危なっかしい」ギターソロを弾いちゃう五十嵐ですが、
この時はいつもより巧く、音もクリアで、それでいてとてもエモーショナルに演奏していました。

真っ暗なステージで始まった1曲目のRebornから
2曲目のSonic Disorderのイントロに入ってパーッとライトが光って
メンバー3人が姿を現した瞬間は本当に鳥肌モノでした。
もしこの情景を生で目の当たりにできていたなら、どんな衝撃を受けただろう。

そして新曲ラッシュ。新曲は、どれも渋かった。
きっと、何度か聞くうちに良さがわかっていくタイプの曲が多かったと思う。
だからこそ、音源化を強く望んでしまう。
何度も繰り返し噛み締めたい曲達だった。
「真夏のターンテーブル」が、すごく良かった。よくわからないが泣けた。

アンコールのリアルが、めちゃくちゃカッコ良くて素晴らしかった。
最後を「翌日」で締めるところに、微かな希望を感じた。

この『生還』で自分が強く印象に残ったのは、五十嵐の「表情」でした。
今までの五十嵐とはどこか違った、爽やかさと情熱の入り混じった
感情の豊かな表情を見た気がします。
とくに「透明な日」の時の顔が、目に焼き付きました。

五十嵐は、たしかに生き返った、生まれ変わったのだと感じました。
もう二度と五十嵐がステージに立つことはないだろう、と思っていました。
それは本人もそう思っていたのかもしれない、それがMCから見受けられます。

あれから1年も経って、五十嵐隆は今どうしているのか。
今後どうなっていくのかは、きっと五十嵐本人にもわからないのでしょう。

何にせよ、改めてsyrup16gの音楽は最高だと強く実感できたことが嬉しいです。
俺はもしかして酒癖が悪いのかもしれない、と最近思った。
思い返せば、飲み会では本当に沢山の人に多大なる迷惑をかけてきた。

酒癖が悪いと言っても、店で暴れて器物破損まで発展したりとか
絡み酒で誰かに説教したりとかそういうことはしないが
自分のよくないところは、たいして酒強いわけでもないのについペースを考えずに
ガンガン飲んでしまうところ。
だからけっこう早く酔っ払ってしまうことが多い。
で、自分は酔うと露骨にテンションが高くなってけっこううざくなる。
このうざい自分が俺は嫌いだ。
飲み会の最中は楽しいが、酔いが醒めて我に返ってからの
俺は何をやっていたんだろう感が半端無い。

これぐらいでは別に普通じゃないか?と思われるかもしれないが
実際酔うと調子に乗りやすくなるのでけっこう相手のペースを無視してめんどくさい奴になってしまったり
ちょっと色々やりすぎて周りが引くようなことをやってしまったこともあるし
吐いて先輩の部屋を汚してしまったこともある。
最近の飲み会ではトイレでうずくまったり路上で寝たりしてしまった。

周りの人と比較してしまうからなおさら気にしてしまうのかもしれない。
最近の飲み会では特にそうだ。
なんか知らんが自分が一番酔っ払ってる率が高い気がする。
昔はどっちかと言えば素面側でいる方が多かったのだけど。
なんにせよ、とにかく酔ってる時の自分を後で客観的に見ていたたまれなくなるのが嫌なのだ。

しかし、こんな自分でも大学のサークルの頃からの仲間達はちゃんと飲み会に誘ってくれるのが嬉しい。
嬉しいと同時に、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
この人達にどれだけ迷惑をかけてきたんだろうと最近はやたら自己嫌悪と反省を繰り返すようになった。

周りの人は、酔っ払っている自分を見てどう思うのだろうか。
そこに懸念を抱くとどんどんネガティブが加速していってしまう。
そしてそれを直接誰かに聞くなんて怖くてできない。
考えすぎだろうか。

ちなみに自分の場合は、酔っ払ってる人の相手をするのは好きだ。
酔っ払ってる人はツッコミどころ満載だから、素面側に立つと楽しくてしょうがない。
また、自分は酔っ払ってる人を見ると酔いが醒めるという謎のスキルがある。
しかしこれは、今このべろんべろんの人よりは明らかに俺の方がまともだ、優位だ、という
優越感から来る汚い潜在意識なのかもしれない。
そう考えるとやっぱり俺は素面でもいやなやつなのだ。

最近やたらこのブログにスパムコメントがつくようになったので(「ゆかりです!いいブログですね!」みたいな)
実は人知れずブログをチェックしては消したりしているのだが
もしかして最近放置気味だから迷惑コメントがつくのだろうか?
なんでもいいから書けという管理者側からの差し金かもしれない。

書くことはいくらでも思いつくんだけどね。
今週中には、なにか書いた方がいいかもしれない
2014年4月1日をもってついに俺のポップン歴は2年目になります。
2年目にしてついに大きなポップンスランプに陥ってしまいました。

現在自分の最高レベルは48で、クリア状況は
レベル48:3曲(陣旗プログレッシブ、ヒップロック5、エッセンシャリー)
レベル47:57曲
レベル46:現時点で全埋め

となりました。レベル46が100%クリアできたのは本当に快挙でした。
実はまだ44と45がそれぞれニンジャヒーローとスペースオペラがクリアできていないのだけど…

というわけで順調にここまで成長できたのですが。
なんともう1ヶ月以上、47以上の新しいクリアメダルはおろか
黒★も黒◆もつけることができていないのです。

これには様々な要因があります。
何度も言ってるかもしれませんがポップンは本当にメンタルゲーだと思ってます。
その時の気分などによってポップンのプレイの調子は全然違って
しかも48付近になるとやはりもう、くるとこまできたなっていう領域で
そう簡単にはクリアさせてくれず、プレッシャーにも負けて
手汗をかいたり譜面が見えなくなったり、精神的に疲れるようになってしまいました。

ポップンに飽きたわけではなく、また何度もゲーセンに行きたくなるのですが
毎回いい結果を残せず、必要以上に疲れが溜まって
ゲーセンから家に帰ってきた後、ものすごく疲弊するようになりました。


つい最近まで週に必ず2回、毎回6クレ以上ポップンをやっていた俺ですが
今は週に1回、下手すれば2週間に1回という頻度に。

しかしいい感じに熱が落ち着いてきたといえばそうなのかもしれません。
むしろ、今までが異常だった感があります。
この2年間、自分は本当にポップンの虜になってポップンが生き甲斐になっていました。
それは周りの人にもかなり伝わっていたと思います。

ポップンはついにサニパ終焉の空気が流れてきていよいよ新作の発表もされました。
これをきっかけに、ポップンを控えるのもいいかなと思ってます。
ただポップンはしばらくやっていないと本気で腕が鈍るという話をよく聞くので、
たまにやって鳴らしておいて後悔しないようにしたいです。
ポップンをやめる気はまだまだ無いし、成長の限界が止まったとは思ってないしね。


また、自分の影響でポップンを始めたという声をちょくちょく聞くのが嬉しいです。
俺は人のポップン話とか、成長の様子を聞くのが好きなので
そういったコミュニケーションをとれる人が増えるのは楽しいです。
だからもっともっとポップンプレイヤーが増えて欲しいと切に願っています。

惜しいなと思うのが、「ムカデの影響でポップンはじめたけど難しすぎて無理だった」
という声をよく聞くこと。正直これはもったいない!と思います。
これはいわば、ギターでFコードが弾けなくて挫折したのと同じことです。
最初できなかっただけで、自分には音ゲーの才能がないと言い切っちゃう人がよくいますが
たいてい固定観念で言ってるだけだと俺は考えています。

まず、最初に難しいと感じるのは9つのボタンの位置に追いつかないからだと思います。
でもこれは最初だけなのです。そのうちボタンの位置は体で覚えます。
1ヶ月ぐらいはボタンの押し間違いが頻発するかと思いますが、
継続して何度もプレイしていれば勝手に慣れていくはず。
そこからポップンの本番が始まると言っても過言ではないでしょう。
ギターだって同じ練習を何度も重ねることでFコードが弾けるようになり、
やっと色んな曲が弾けるようになるのです。

そもそも音楽が好きで、ポップンのキャラの雰囲気などが好きなら
もうそれだけでハマってしまうと思います。
やるやらないは人の勝手だけど、まずは何度かやってみてはいかが?と俺は思ってます。

あとは「上手い人の後ろからの視線が怖い」という理由でなかなか踏み出せない人も。
しかしはっきり言って、ちょっと被害妄想では?と思ってしまいますw
といっても、そういう気持ちはすごくわかるけどね。
でもそんなことで敬遠せずに、こわがらないで一度やってみてはいかがでしょう。
きっと楽しいはず。
以前、うちの実家では犬を飼っていました。名前は「キュン」。男の子でした。犬種はパピヨン。
飼ったばかりの頃、高い声できゅんきゅん鳴いていたのが可愛くて、その鳴き声から姉が名付けました。
1年ぐらい経ったらよく吠えるようになってしまい、まったくきゅんきゅん鳴かなくなりました。
このキュンちゃんと関わっていく中で、ひとつ俺にとって印象的すぎる出来事がありました。

忘れもしない、2011年の11月。
この頃、俺は一人暮らしをするために引っ越す前で、
物件が正式に決まるまで暫くの間、実家に滞在していたのです。

ある日の朝、出掛ける準備をしている母からキュンの散歩を頼まれました。
この時、自分でリード(散歩する時に犬が逃げないためにつける縄みたいなやつ)をつけたのですが
実は自分はリードをつけるのがあまり上手くなかったのです。
だけど今までそれで大事に至ったことがなかったので、いつもどおりに
家の周りの散歩に出かけました。この慢心がいけなかった。

なんと散歩の途中でキュンが強くリードを引っ張ったことによって、リードがすっぽ抜けたのです。
そしてキュンは、そのまま駆け出してしまいました。
俺は冷や汗をかきました。

ちゃんと飼い主のことは覚えているので、名前を呼ぶと振り向いて止まってくれるのです。
そこでリードをまたつけようとするのですが、焦ってうまくいかない。
もたもたしているせいで、また途中で逃げ出してしまう。

最もまずかったのが、この子は抱っこされることを極端に嫌がるのです。
飼ってから間もない頃は抱っこされてもおとなしかったのですが、
1年ぐらい経ってから抱っこされると大暴れして噛み付いたりするようになってしまったのです。
それ以来、キュンを抱っこできたことは一度もありません。
なのでこの時も、抱きかかえて家に戻ればそれで事態は解決するのですが
やはり抱っこしようとすると凶暴化してしまい手がつけられませんでした。

1回、車に轢かれそうになりました。マジであぶなかった。
それほど車が多い道路じゃなかったけど、キュンが飛び出してしまったのです。
トラックが10メートル近くまで来たところを横断したので、本当に心臓が飛び出そうになった。

ここで思い立った。そうだ母にケータイで連絡しよう!
すると母が電話に出て、運良くまだ家にいたのです。
そしてまだ家から70メートルほどの場所にいたのでそう遠くはなく、
キュンが空き地で止まってくれたのでなんとか場所を伝えることができ、
間もなく母がきてくれました。

そして母にリードを渡すと、まさに赤子のおしめを替える様な慣れた手つきで
まったく焦る様子もなくリードを装着させたのです。
母曰く「この子は逃げようという意志もとくに無く、本人としてはただいつものように
散歩していたつもりでいただけ」なのだそうです。
つまりリードがあるかないかの問題だったということか。
この時ほど我が母親がカッコよく見えたことはありません。

しかしこれが自分にとっては非常に大きなトラウマになってしまいました。
もしあの時ケータイを持っていなかったら、もし母が家にいなかったら、
もし愛犬が事故に遭ってしまっていたら―
そう考えると、ゾッとします。
「もしあの時タイミングが少しズレていたら死んでいたという出来事を思い出してヒヤッとする」
という感覚は誰にでもあると思うのですが、まさにそんな感じ。
これ以降、自分はリードを自分でつけるのはおろか散歩にも行けなくなってしまいました。


それから半年弱。2011年4月。俺は既に引っ越していました。
朝、電車に乗っている時に母からメールが届いていました。
キュンが亡くなったというメールでした。

11歳だったかな。年齢をはっきり覚えていない。飼った時はたしか生後2ヶ月だった気がするが
そういうのが曖昧な状態でうちにきたものだから。

家族はみんな、別れの時が来るのは覚悟できていました。
実はキュンはこの2年ほど前から体を悪くしていて、かなり衰弱しており
よく発作を起こしていました。
その頃から獣医の先生に、もう長くは無いと言われていたのです。
そこからこんなに長く生きたのだから、奇跡だ。超小型犬の小さな体のどこにそんな生命力が。

この時家族全員が都合がうまく合って、全員実家に帰ってキュンの最期に立ち会うことができました。
これも奇跡でした。
一番最初に実家に着いたのは俺でした。
キュンは目を開けたまま、眠りに着いていました。
横にいた母がボックスティッシュを置いてくれた。

俺はキュンを抱っこしました。
キュンが抱っこを嫌がって暴れるようになってから、10数年ぶりの抱っこでした。
皮肉なことに、彼を自由に抱っこできるようになったのは、彼の命が尽きてからだった。
俺はそれが悲しくて、2時間ぐらいずーっとキュンを抱っこしていました。
今までを惜しむかのようにずーっと。
ふさふさでもじゃもじゃだった毛もしおれて、痩せてしまっていたのだけど
体に少し温もりを感じたのが印象的だった。

いつもものすごくしつこく俺の顔をべろべろ舐めて、もう俺のことをなんだと思ってくるんだってぐらい
いつもべろべろ舐めてきたのです。
いつも実家に久しぶりに帰ったときに玄関までダッシュしてきてしっぽを振って
俺が茶の間の座布団やらソファーに座ると、そこめがけてアホみたいにべろべろ舐めてきたのです。
その感覚を味わうことは、もう無い。


今回の記事は、特に犬を飼っている人に読んでもらいたかった文章です。
自分はあれから、散歩中の犬を見かけるたびに愛犬の姿を照らし合わせるようになり
たまにあのトラウマも甦るようになった。
もうすぐ3回忌。やはりこの時期になると思い出す。
最後に獣医の先生が、「あなたに飼われてこの子は本当に幸せだったと思いますよ」
と母に言ってくれたらしい。俺はそれを聞いたときにたまらなく涙が出た。
犬を飼っている人は、けして後悔することの無いようにかわいがってあげてください。
俺はミスチルが好きです。
俺も国民のご多分に漏れず、 ミスチルの音楽にお世話になり続けてきた人間の一人です。
といってもアルバムを全部聴いたわけでもなく、すごく純粋なファンというわけではありませんが
今もなおJ-POPを支えている現役メジャーバンドの中では一番だと思っています。
そして、ミスチルの"本当の魅力"についても少しは理解していると自負しております。

自分が思うミスチルの本当の魅力、それは「やりたいことをアルバムでやっている」
というところにあると思います。
シングルは大衆にも向けられた表の顔、しかしその裏でアルバムの蓋を開けてみると
シングルA面曲とは毛色が違った曲が沢山あるのです。

このように、シングルで出せない曲をアルバムに収録してアルバムで本当にやりたい音楽をやる、
っていうアーティストって多いと思うのです。
自分の中で、アルバム曲も良曲揃いだったり、アルバムのコンセプトがはっきりしていたりする
バンドやアーティストはだいたい良い、というテンプレートがあります。

ミスチルのシングル曲は、どちらかと言えば「キレイ」な曲が多いと思います。
が、実はアルバム曲はもっと社会風刺だったりダウナーだったり、マニアックな曲が多いのです。

顕著だと感じたのが『深海』というアルバム。
『深海』は、個人的な感想ですが不気味とも言えるほどの独特な暗さがあり、
ミスチルの表の顔しか見てこなかった人は大袈裟かもしれませんが軽くショックを受けるのでは、
という印象を受ける程の内容でした。
決して聴きやすい、受け入れやすい方のアルバムでは無いと思います。
だけどこれがミスチルの「やりたいこと」のように見受けられるのです。

シングル曲では、やはりどうしてもどこかで商業的なメロディーだったり(言い方悪いですが)
キャッチーなフレーズを意識しなくてはならない。
そのジレンマをアルバムで発散させているような、そんな気がします。

たまにこの「裏の顔」が表に顔を出してくることもあります。
『マシンガンをぶっ放せ』や『everybody goes』などがそれにあたるでしょう。
しかしこれらはどちらももともとシングルA面曲ではなかったのです。
マシンガンをぶっ放せは『深海』のアルバム曲をシングルカットしたものだし、
everybody goesは当初の予定はカップリング曲だったけど、出来がよかったためシングルとして
出したらしいです。

そんなミスチルは後に『フェイク』というシングル曲を出します。
自分はこれを聴いた時に「これはミスチルの最高傑作なんじゃないか」と衝撃を受けました。
ダウナーなイントロから始まり、出だしの"言ってしまえば僕らなんか似せて作ったマガイモノです"
というフレーズ、そして最後の"すべてはフェイク それすら…"に至る顛末。

"どれくらいのペースで行こう?まずは何番手に着こう?"
"「愛してる」って女が言ってきたって誰かと取っ替えのきく代用品でしかないんだ"
と、誰もが本音を隠して生きる嘘だらけのこの世を皮肉る。
この曲は『フェイク』というタイトルでありながら、真意を歌っているのでしょう。
すべてはフェイク、それがこの世の真理なのだと。

露骨なまでにシニカルで挑発的なフレーズが繰り返されるこの曲を聴くと、
桜井さんはこれをシングルで出したくてしょうがなかったんじゃないかな、と勝手に思っちゃいます。
まるで今まで蓄積されてきた鬱憤を吐き出すかのように、
この『フェイク』に全てを込めたのではないでしょうか。
ミスチルの裏の顔が、表舞台に躍り出たのです。


このような点から、ミスチルの音楽にかける確かな意気込みが伝わってくる気がします。
そこに俺は大きな魅力を感じるのです。
そして桜井さんの歌詞はメッセージ性が強いだけではない。
非常に「印象的なフレーズ」を生み出すことができるのも、また大きな魅力の一つなのです。

これについては、このブログで以前にも音楽における歌詞の重要性について
という記事で言及しています。
桜井さんは頭にこびりつく歌詞をメロディーに載せるのが天才的に上手いです。


ただメロディーが良いから、というだけでミスチルを聴いているのではもったいない。
売れているバンドだから、という理由だけで食わず嫌いしている人はもっともったいない。
表を聴いても裏を聴き込んでも魅力をそこらじゅうに醸し出すバンドだからこそ
ミスチルはとても幅広い層に愛されているのはないでしょうか。


昔書いた記事 と被る内容の記事なんですが
人を遊びに誘ったりするのが本当に、本当につらくなってきました。
きっと俺は色々考えすぎなのだと思いますが。

自分が対人恐怖症になりつつあるのかとも思ったりしたけど
人とはむしろ会いたいのだと思います。人と会話すればそれだけで心が救われるし。
しかし、そこまで持っていくことにかなりのエネルギーを使うようになってしまった。

遊びに誘って、いざ遊ぶまでの過程で精神的にすごくやられるんです。

まずお誘いのメールや電話などがつらい。
誘おうとするまでの決断に自分はかなりの時間を要します。
メールで誘うと、メールが返ってくるまでの時間でネガティブなことを考えて体力を消耗していく。
電話をかけると、留守電になってその後向こうから電話がまったく返ってこないってこともあるので
これまたどんどん沈んでいく。
断られた時はまたつらいですが、レスポンスが無いよりはマシ。

そしていざお誘いに成功した時もここからがまたつらい。
自分はほんとに、集合時間の5分ぐらい前まで「もし相手が来なかったらどうしよう」と心配してしまうのです。
複数人の飲み会があっても、そのうち2人ぐらいは来ないだろうなという前提で構えてしまいます。

ここまで不安性になってしまったのは、やはり過去の経験のせいなのかなと思います。
だからもしかしたら今後人生経験を重ねるたびに自分はどんどん、人を誘うのが怖くなっていくのかも。

遊びたい人はいるのに、なかなかすんなり遊べないってのはきついな。
人と遊びたい、という気持ちが消えてないだけまだ大丈夫なのかもしれないけど。
「暴言」をネタとして吐いていいのは、それを面白くできる人だけだと思っています。
たとえば『死ね』とか『殺すぞ』なんて、冗談でも言わないほうがいい言葉です。
これらが「ネタ」として機能するのは本当に絶妙な限られたタイミングだけでしょう。

この前、俺が艦これをやっていた時に、あるキャラクターが仲間になったのですが
それがはっきり言って自分の中で「ハズレ」キャラだったので
思わず鼻で笑ってしまったのです。それもネタっぽく。
すると、『何笑ってんだよ殺すぞ』と言ってきた人がいました。

これはそのキャラクターがハズレ扱いされたのが腑に落ちなくて憤慨したのだと思われますが
その人はそれ以外は普通に俺が言う冗談などに対しては特に怒らず、
むしろ同調してくれたりもしていたのです。
だからどっちかと言えば先ほどの「殺すぞ」は、当人としてはネタのつもりで言ったのでしょう。

が、俺はそれがものすごく不快でした。何も面白くないからです。

本人は面白いつもりで言ってるっぽい感じが余計イヤでした。
そこでちょっと暴言っぽく言っていると面白いと思ったんでしょうね。
しかしそりゃあ、こっちはふざけてんのに「何笑ってんだ殺すぞ」なんて言われたら不愉快極まりない。
いわゆる「おいちょっと表出ろよ」的なネタを狙ったんでしょう(アレも面白くなかった時は不快)。

このように、面白くない人がネタで人をイジるとロクなことが無いんです。
笑えないどころか感じ悪いという。
よくイジられキャラの人っていますよね。イジられキャラの人はそのキャラが
周囲に定着、浸透してしまうとま~皆からイジられるようになりますが
これによって面白くない人まで「イジり」に参加してしまうという弊害が起きてしまうのです。

イジられキャラというのは、面白い人がイジるから面白くなるのです。
イジるのが上手ければその場では笑いが起き、イジられる側もおいしい。
が、それに便乗してイジってるだけの人は下手をすれば
それが「イジり」ではなく「イジメ」になってしまうのです。

面白くない人は、ただ「バカじゃねーの」とかそのイジられキャラの人に
辛辣な言葉を与えればそれでいいと思ってますからね。
こうなると、周囲の人たちもガチで萎えてしまいます。
また、もし「レベルの高いイジられキャラ」であれば「うわーこいつにイジられると損しかしねえな
もっとおいしくすれやボケ」と心の中でイラついてるはずです。
これは「便乗してネットスラングを言っている人」がつまらないことに通ずるものがあります。
面白くない人は、無理をするなという話。
俺はどうしようもなくへこんだり、なんだか人生疲れたなって思った時は
syrup16gの『明日を落としても』という曲をよく聴きます。


―辛いことばかりで 心も枯れて 諦めるのにも慣れて
したいことも無くて する気も無いなら 無理して生きてることもない
機械みたいな声でさよならされて それでもなんか傷付いて
誰も愛せなくて 愛されないなら 無理して生きてることもない


これが、明日を落としてものメロの歌詞です。
初めて聴いた時に自分は、この曲はひたすら暗く痛い、絶望の歌だと思っていました。
その時はまだ自分はうまく読み取れてなかったのでしょう。
これはそんなどうしようもない曲ではなかったのです。

つらいことばかりで何もする気がしないなら、無理しして生きてることも無い。
しかし生きている。したいことがあるからだ。
したいことがあるなら生きていけばいい。
誰も愛せなくて愛されないなら生きていてもしょうがない。
でも愛してくれる人はいるはずだ。
愛している人もいるはずだろう。
ならば生きるべきだ。

いつしかそう聞こえるようになりました。
その時にすごく、この曲に励まされました。

「自分のことなんて皆キライなんだ」「誰にも愛されてなんていない」
そんな風に自暴自棄になったりすることもあります。
でも、明日を落としてもを聴くと
決して情熱的ではない、しかし強い感情を持った
思念の釘を打ち込まれたような気分になるのです。

ボーカル五十嵐隆の、五十嵐なりの
ポジティブじゃない、ネガティブだけど何よりも強く力を与えてくれるメッセージなのです。
あくまで想像だけど、五十嵐さんもそんな気分になったことがあったから
この詞を書いたのではないだろうか。


―明日を落としても誰も拾ってくれないよ それでいいよ
そう言って うまくすり抜けて そう言って うまくごまかして
そう言って 楽になれること そう言って いつのまにか気付いていたんだ


明日を落としてしまったら、もう誰も拾ってくれない。
それでいいんなら、それで楽になれるんなら、それでいいよ。それでいいのなら。
そんな風に言われてるような気がしました。
だから、自分の存在がどうでもいいものになってしまったと錯覚した時に
それじゃだめなんだと気付かせるために、この曲を聴きます。

この曲の自分なりの解釈が合っているかどうかは、わかりません。
もしかしたら五十嵐の意図はもっと別のところにあるかもしれない。
俺が勝手に励まされてるのを見て五十嵐は「いやそんなつもりじゃないんだけど」と笑うかもしれない。
でもそれでいいと思っています。
間違った解釈でも、いいのだ。
そう受け止めることによって俺はこの曲に救われ続けてきたのだから。
ニコニコで実況プレイ動画をやっていると、必然的にツイッターで実況者のフォロワーさんが増えていきます。
で、以前から感じていたこと。
それは、ツイッターで実況に関することをあまり呟かず、普通に日常的なことだったり、実況とは関係ないことを
呟いている人の実況動画は面白い場合が多いということです。

今回の記事は、ツイッターをやってる実況者さんが読んだらどう思うのだろうか
という少々の懸念もあったので書くべきかどうか迷っていたのですが
別に実況に関することをよくツイートしてる人がつまらない人ばかりというわけではないということと、
たまたま自分の見解でそういう事例が多かったという話に過ぎないので
あまり気に留めないぐらいのテンションでいて下さると幸いです。

ここでいう「実況に関すること」というのはどういうツイートかというと、たとえば
「再生数がいつもより伸びない」とか「最近ああいう実況が多いな」とか
自身の動画に関することや、ニコニコの実況全体に関する個人の感想などです。
ただ思うのが、後者はともかく前者のような「俺の動画今回全然伸びてないなー」みたいなツイートは
はたから見てどう映るか、ということ。

はっきり言ってしまえば、視聴者や第三者からすれば
数値がどうとかどうでもいいよと思う人もいるし
この人伸びるためだけに実況やってんのかなという印象を持ってしまう人もいるでしょう。
実際のところ、再生数やコメント、マイリスト数が増えると嬉しいのは、ほとんどの実況者がそうだと思います。
むしろ10割がそうなんじゃないでしょうか。
みんな「反応」が欲しくて動画を上げるわけですから。
普段あまりそういう話をしない人でも、心の中では「伸びて欲しい」と思っているはずです。

だから、そういった実況に関するツイートをしたくなる気持ちもわかります。
自分もけっこう実況のことをツイートしてた時期もあったと思います。
ある意味、包み隠さず本音を言えるのはいいことなのかもしれません。
ツイッターで何呟こうがその人の勝手ではあるし。
ただ、客観的に見たらどうだろうという話なのです。
結構頻繁に自分の動画の出来が今回はどうだったとか、ああすれば伸びたみたいな
ツイートをしている人がいますが、やはりどうしても「必死」に見えてしまうことがあります。
他の人の実況動画が面白かったとかそういう話ならこっちも受け入れやすいですが。

対して、ツイートで「動画を投稿しました」ぐらいの報告はするけれど
別にその動画に関する話をするでもなく
「カレーがうまい」とかそういうどうでもいい生活感のあるツイートで溢れかえってる人の動画は
だいたい面白さを持っています。
その秘訣は、やはり実況に対して依存しているところを見せないのが良いのでしょうか。
それにツイート自体も面白かったりするし。

だから自分はたまに、実況をやってる人のツイッターを見つけたりフォローされたりしたら
その人のツイートを読んで、その人の動画が面白いかどうかを判断することがあります。
ツイートにセンスがある人はやはり動画も面白いのです。
また、ツイッターでなくブログなどで実況の話や本音を語ったりしている人は
住み分けができてると言ったらナンですが良いなぁと思います。

余談気味になりますが、自分もツイッターで実況の話はあまりしません。
これが自分の場合は、「実況者として見られるのが嫌だから」です。
これについては、このブログでも以前書いたのですが→これ
実況者はアイドルでも芸能人でもなくただの素人なので
視聴者さんに境界線を張られるのがイヤなのです。
だから自分は「カレーがうまい」とか、本当に誰も得しない、
しょうもないツイートしかしません(それはそれで問題あるか)
たまにフォロワーさんで、俺がたま~にする実況の話にだけ
食いついてリプライを送ってきたりする人がいますが、そういうのを見ると
「ああこの人は俺を『実況の人』としてしか見てないんだな」と寂しい気持ちになってしまうのです。

自分がそういう感じだから、面白いとか以上にやはり実況者さんでも
人間味のあるツイートをする人の方が好きです。
人間味大事。