「気にしすぎ」
南無阿弥陀仏。
ずいぶん、軽い言葉だ。
短い。便利だ。すぐ使える。
そして、ほとんど何も見ていない。
👉 励ましているんじゃない
早く黙らせたいだけです。
体がこわばる。顔色を読む。
怒られていないのに怖い。
それを見て、「性格だ」で終わらせる。
楽だ。説明がいらない。
だがそれ、現実じゃない。
たとえば。
火傷をした手がある。
もう火はない。なのに触れない。
触ろうとすると、体が先に引く。
それを見て、「気にしすぎ」と言う。
👉 弱いんじゃない
体が覚えているだけです。
家庭。学校。空気。沈黙。怒鳴り声。
そこで身につけたものは、性格じゃない。生き延びるための反応だ。
読む。避ける。固まる。
全部、役に立っていた。
そのおかげで、ここまで来た。
なのに今、それを責める。
👉 治したいんじゃない
邪魔だから消したいだけです。
社会は急ぐ。
普通にしろ。気にするな。前を向け。
だが体は、そんな速度で変わらない。
神経は、命を守る速度でしか動かない。
それを無視すると、どうなるか。
さらに固まる。さらに怯える。
さらに苦しくなる。
そして最後に、こうなる。
「自分がおかしい」
ここが一番深い傷だ。
👉 壊れているんじゃない
守り続けてきただけです。
わかっていても、やめられんのです。
なぜか。
👉 やめた瞬間に
また傷つく気がするだけです。
だから続く。続いてしまう。
それでも。だからこそ。
ここで一度、止まる。
直す前に、責める前に、評価する前に。
そうなった理由を、そのまま置く。
「そりゃそうなる」
これだけで、少し変わる。
如来は、そこに来る。
強くなれとは言わない。
直せとも言わない。
そのままで、
すでに抱え取られていると、知らせる。
防衛も、弱さも、そのまま。
南無阿弥陀仏。
責めなくていい場所がある。
そこから、ようやくほどける。
南無阿弥陀仏。

