「私は正しい」
これほど気持ちのよい場所は、なかなかありませんな。
南無阿弥陀仏。
差別はいけない。
弱い者を排除してはいけない。
違う生き方を認めよう。
その通りです。
ところが、正しい言葉というものは、時々よく切れる刃物になる。
多様性を認めない者は遅れている。
そんな考えは古い。
勉強不足だ。
差別的だ。
そうやって、誰かを傷つけないために掲げた言葉で、別の誰かを切り始めることがある。
ここが、人間の面白くて怖いところです。
今回の議論には、現代の高学歴・専門職層が「多様性」や「包摂」を掲げながら、階級的な優位を再生産しているという批判があります。(東洋経済オンライン)
ただし、これは一つの政治哲学から見た批判です。
この見方そのものにも、
「庶民」と「エリート」を単純に分けすぎている。
別の価値観や生き方を狭く扱っている。
という反論があります。(The Washington Post)
だから、どちらが正義かを決める話にすると、また同じ穴へ落ちる。
無常坊が気になるのは、もっと小さなところです。
正しい側に立った瞬間、なぜ私は相手の話を聞かなくなるのか。
環境問題でも。
男女の問題でも。
教育でも。
宗教でも。
政治でも。
こちらには、立派な理由がある。
だから、だんだん言葉が強くなる。
食卓で家族と言い争う時と同じです。
最初は、
「分かってほしい」
だったはずなのに、十分後には、
「分からせてやる」
になっている。
いやぁ。
ほんの少ししか違わんのに、ずいぶん遠くまで来たものです。
そして相手が黙る。
私は思う。
「やっと分かったか」
違うかもしれん。
呆れて、口を閉じただけかもしれない。
これが、正しさへの執着なのでしょうな。
私も同じである。
仏教を語る時ですら、そうです。
差別はいけない。
戦争はいけない。
命を粗末にしてはいけない。
正しい。
けれど、その正しさを握った私が、
「こんなことも分からんのか」
と誰かを見下した瞬間、私はもう、自分が批判していたものとよく似た顔をしている。
凡夫性とは、悪いことをしている時だけ顔を出すものではない。
善いことをしている時ほど、立派な衣を着て現れることがある。
わかっておる。
だが、やめられん。
正しいと思えば、勝ちたくなる。
相手を変えたくなる。
最後には、自分が正しい人間であることまで証明したくなる。
南無阿弥陀仏。
親鸞聖人の言葉に触れていると、私たちは自分だけを善人の側に置いて、悪人を眺めてはいられなくなります。
正義を捨てろ、ということではない。
差別も、不公正も、見過ごせばよいという話ではない。
ただ、正義を語っているこの口にも煩悩がある。
弱者を守ろうとするこの手にも、誰かを押しのける力がある。
そこから、私は逃げられんのです。
阿弥陀仏は、正しい者だけを選んで救う仏ではない。
正しさを握って他人を裁き、そのことにさえ気づけない私を見捨てない。
だから念仏は、私を正義の席へ座らせる言葉ではなく、その席から何度でも引きずり下ろす言葉なのでしょうな。
南無阿弥陀仏。

