もしも、水が言葉を写すのが本当だとして。


人間の体の大部分が水というのも、本当であるならば。


ふと、あることに思いついて、愕然としました。


ロゴ入りTシャツなどに、わたし達はもっともっと気をつかうべきかもしれない!!??


今まで無頓着にロゴ入りTシャツを買ったりしていましたが。
そのTシャツにどういう言葉がプリントされているのか。
それによって、人の体も影響を受ける……?


例えば、
“LOVE”というロゴの入ったTシャツと、
“DEMOLITION”のロゴの入ったTシャツがあったとして。
同じ人が着て、体調が変わることはあるのでしょうか。


水だって影響を受けるのだから、70%が水という体だって、影響を受けない訳はない……?


「Demolitionが破壊という意味だってこと、わたし知らないし。そんなの関係ないでしょ」
と思うかもしれないけど(わたしも今知りました)。
『水は語る』では、現代人が理解できない古代文字を読ませても、水は反応しました(P165、アソヒノオホカミ)。
英語が理解できないなら大丈夫、ではないかもしれない。


ロゴのメッセージを、体は読んでいる……???


大きく反映されないとしたら、おそらく体には、人の精神がやどっているため外部からの影響をはねのけられるけど、水はそれがないので、ただ言葉を受け入れるだけなのでしょう。


検証したわけではないので、あくまで憶測でしかないですけれども。
(だれか研究して~)


うーん、Tシャツもちゃんと選んで買わなきゃいけないな、と思いました。
昔ラスベガスで買ってきた“金こそすべて(的な英語)”のロゴ入りTシャツ。キラキラのデザインが気に入ってたんだけど、あれは断捨離すべきかなあ……(^^;;;

20170719Ito_a

 

喜び色や悲しみ色、うれしい色や後悔の色。
いろいろな色にそめて。

あなたの色も教えてくれる? どうやってその色になったの?
とてもきれいね。やり方を教えてくれる?
わたしにもできるかしら。


20170719Ito_b

 

あらら、からまっちゃった。
たんこぶになったところを探して。
やさしくときほぐしましょう。
引っ張ると糸が切れてしまうから。そっと、そうっとね。

どうしましょう。
ほぐれたけど、たんこぶの跡がよれてしまったわ……。

そうだ、いいこと思いついた。
そのくせを生かして、飾り結びにしましょう。

どうかしら。すてきでしょ?
この糸だからこそできた形よ。


201707Ito

(写真はPhoto ACより)

 


(写真:ぱくたそ)


職業に貴賎はない、といいますが、どうなのでしょうか。
もちろん人の病気を治す医者と、トイレの便器の開発をしている私が(例えばです)、同じ価値があるとは言えません。そこにはやはり越えられない壁があると思います。
でも、どちらも、世の中になくてはならないものです。
教師も、会社員も、工事現場の人も、同じです。

むしろ、「貴賤がない」と決めるのは、自分自身の心なのかもしれません。
わたしが日々、トイレの便器開発をしながら「こんなクソみたいな仕事、おもしろくもなんともない」と感じるか、「これは人々が快適に生活できるようになる、未来産業的な仕事でサイコーに面白い」と感じるか。
どんな思いでやるかが大事なのだと思います。


家庭をふりかえってみましょう。
家事というのは料理、洗濯、掃除と単純労働作業です。ホワイトカラーが上位にある現代社会からみると、やや低いものに見られることもあります。専業主婦よりは、パートをしている主婦のほうが生産性のあることをしていると見られることもある。

だけど、たぶん、家事は大切な仕事なのです。
主婦は、とてもとても、大切な仕事なのです。

日々、人が寝起きする場を清め、空気を精妙にする。
日々、人の栄養になるごはんを作る。
――そのごはんは、体に栄養をもたらし、心に、愛を食べさせる――

お坊さんたちが修業で、料理や掃除を重んじてるのには理由があるのでしょう。家事とは、生産性とかお金を稼ぐとかはないけれど、そういったものを超越しているのかもしれません。

ここはオーベルジュ。
わたしたちはそこの女主人なのです。
そしてたぶん、巫女でもある。
 

 

「怒りをこめたら、金魚鉢の金魚が死んだ」
どなたか失念してしまいましたが、衝撃的な言葉です。

「怒りには毒素がある」
今でも心にひっかかっていて、たまに心がザワつくと思い出します。


『水は語る』(江本勝、講談社文庫)を読みました。
水の入った容器に、言葉を印刷した紙を貼り付け1晩おく(水に読ませる)。その水を冷凍し、雪のように結晶化したものを写真に撮る。
なんだそんなこと、と思うのですが、写真に写った水の結晶はおどろくほど様々な形に変わります。

バッハなどきれいな音楽を聞かせると、きれな結晶が。
ヘビメタなど荒っぽい音楽を聞かせると、いびつな結晶が。

 

 

「ありがとう」など、きれいな言葉の紙を貼ると、きれいな結晶が。
「ばかやろう」など、きたない言葉の紙を貼ると、いびつな結晶が。

びっくりしたのは神様の名前を書いた紙のものが、とても美しい結晶になったことです。
神様って、やっぱりすごい存在なんだ……と感じさせてくれました。
反対に、結晶が形をとどめないほどいびつになったものは? ――そう、神様とは逆の存在でした。


水は言葉を写す鏡なのでしょうか。水に反映させると、その言葉本来の姿が浮かび上がってくるのでしょうか。もしかして、心も映す……?


ちょっと細かい内容は忘れてしまいましたが。
昭和時代のテレビのCMで、奥さんがシチュー(かカレー)をことこと煮ている鍋に、「愛情」とそっけなく言葉をかけている、コミカルなものがありました。
当時はただ笑って見ていましたが、今思い返して、これはとても大事ことなのかも……と姿勢を正しました。

シチュー。
大好きな家族においしく食べてもらいたいな、のシチュー。
疲れたときの作りたくないな面倒だな、のシチュー。
ケンカしたときのあんたなんか大嫌い、でも自分も嫌い、のシチュー。
病気の家族に早く元気になってね、のシチュー。

わたしたちは気持ちを紙に書いて、シチューの鍋に貼っているわけではありません。気持ちは目に見えないし、とらえどころがないものです。でも、もし金魚が怒りで死んだように、他者を動かす力があったとしたら……

よい思いでごはんを作ろう、と思いました。
気持ちが水に伝わり、そしてそれを食べる誰かの身体も――水分70%くらい――ほとんど水です。思いは、食べ物を介して相手にも伝わるのではないでしょうか。

家族が怒りのシチューを食べてお腹を壊さないように (^^;
いつも幸せな気持ちで作り、食べていけるように。


わたしたちは、思いを食べるのです。

 

 

 

 




思いがモノに重なっていくと、モノはなにがしかのプラスアルファがついてきます。
“オーラ”とか“気”と表現する人がいるかもしれません。見えないけれど、敏感な人はなんとなく漂うものを感じるのでしょう。

それを取り除くのが、掃除です。

数年前、“そうじ力”という言葉が流行りました。断捨離とか、カレン・キングストンの本とか、掃除がブームになった頃ですね。

“そうじ力”。
舛田光洋さんが提唱した掃除法です。部屋は自分自身を表わすので、整理整頓することで部屋=自分を調和する、というもの。「ありがとう」と気持ちをこめるとよい。仕上げに部屋の隅に塩を置くとなおよい、と。

なかなか面白い内容だったので、数冊読み、実践もしてみました。塩だけは、梅雨どきだったせいもあり、やりませんでしたけれども。

効果のほどはわかりません。3日坊主ならぬ3ヶ月坊主で、けっきょく1年後には元の散らかった部屋に戻ってしまったので。
でも、いくらかきれいになりましたし、気持ちのほうもすっきりしました。

そこで思ったこと。

精神的な波動、善念や悪想念が、モノに付いたとき。
ほこりや汚れを取り除くように、まわりにたまった気を取り除くのが、掃除のもつ隠された役割なのではないでしょうか。

とくに水は、どうやら霊的なものを物理的にどける力があるらしいのですね。だから掃除も、ぞうきんで水拭きをすることによって、モノに加わったプラスアルファをいったんリセットするのだと思います。
神社の手水舎で手や口を清めるのは、たぶん本当に清めているのでしょう。
私たちが顔や体を洗うとさっぱりするのも、そういう理由があると考えると、納得がいきます。「1日の疲れを洗い流す」という言葉は、比喩ではなく、実際にしているのでしょう。

不思議ですね。昔は「そんな目に見えないこと」と無視していたジャンルですが、あるかもしれない、と考えるようになりました。

水だけでなく、音(鈴、柏手、音楽など)や、香りなども意味を持つようです。これ以上は不勉強なので、書きませんけれども。
ただ、気持ちが落ち着くものは、良いものだろうと思っています。

モーツァルトの名曲“アイネ・クライネ・ナハトムジーク”の冒頭が、私は好きです。あれを聴くといつも、光がはじけるさまを連想します。
部屋の空気が一新されて、すがすがしくなった――そんな気がするのです。
 

 

物に、もし名前が無かったら。

それは、何と呼べばいいのでしょう?

たとえば、イス。
“子供のころミルクをこぼしたシミがあって、それが懐かしいモノ”。

たとえば、皿。
“いろいろ使えて便利。結婚祝いに、職場の友人からもらったモノ”。

たとえば、カーテン。
“だいぶ古いけど模様が気に入っていて、まだまだ使いたいモノ”。

私たちは、日々、モノに囲まれて暮らしています。
イス、皿、カーテン、本、バッグ……
だけど、もしそれらに名前が無かったら。私は最初に書いたような内容で呼ぶでしょう。

たしかに最初は、ただの物です。
自分の手元に来たときは。

だけど使っていくうちに、いろいろな気持ちが、プラスアルファで付いてきます。ふだん意識していなくても、心のどこかに残像としてあったりします。

私たちは、そういう思いを引き出すモノに囲まれて、あるいは思いをモノに積み重ねながら、日常生活をいとなんでいるのです。

同じ物でも、人によって見方は違うでしょう。

目の前のテーブル。

ある人にとって、それは、
“傷だらけだけど、それも家族の歴史。味がある。大事に使っていきたいモノ”。
別の人にとっては、
“けっこう使い勝手がいい。いざとなったらアイロン台にもパソコン机にもなるすぐれモノ”。
あるいは、
“高さは合わないし、脚にはひっかかる。使いにくくて仕方ない。早く壊れてくれないかなあ……なモノ”。

いろいろな枕詞がつく“モノ”になります。

であるならば。
いい思いでいられるような、買い方をしたい。使い方をしたい。

嫌いで使っていても、精神衛生上よろしくないはず。
なにより、そのモノに対しても申し訳ない。

そう……そしてそれは、モノだけでなく。
人にも、同じことが言えるのでしょう。家族や友人、隣人に対しても。

私にとって、あなたは?

“大好きで、毎日いつも笑顔でいてほしい”――ひと。
 

 

あなたの花になりましょう。

大輪の薔薇ではなく、野に咲く菫ですけれども。

花びらのスカートをゆらし、葉っぱのリボンを結んで。朝露を取ってイヤリングにし、月光を集めてネックレスにします。
仕上げに香水をひとふり。

歌を歌ったりもします。
もちろん小声よ。
恥ずかしがりなの。菫ですから。

わたしはしとやかに目をふせ、でも時々、あなたの横顔をちらちらと見ています。ふふ、こっそりとね。
でも、もしかしたら、あなたは気づいていらっしゃるのかしら……

あなたの笑みは、わたしの太陽。
ほほえみかけられると、わたしはとても幸せな気持ちになるんです。
毎日くださいな。
大好きなのよ、それ。

どうぞくちづけてください。
わたしは、あなただけの花になりたいのです。
 


(写真はフリー素材ぱくたそより



たまに花を買います。

ほとんどが鉢植えです。
切り花より安いですし、地植えにすれば、ひとつの季節をずっと楽しませてくれます。

なぜ花を買ってしまうのでしょう?
雑草が出てきたら抜かなければならないし、毎日水をやらなければ、しおれてしまう。外に置いたら、夏場は水をやりに出るたび蚊に刺されて、大変です。

なぜ?

美しいから、だと思います。
かわいいから。きれいだから。
優雅だから。豪華だから。はかなげだから。

花でお腹はふくれないのに?
Yes. 花たちは、心に栄養をくれるのです。

暗い街角にパッと明るく開いた黄色いユリ。うつむいて歩いた道端に、風にほのぼのとゆられるネジバナたち(花だけでなく、茎までねじれているそうです)、デルフィニウムの繊細な美しさは芸術的で、ドビュッシーの音楽を連想させます。

誰が見ていても、見ていなくても、その姿が変わることはなく。
やさしい花たちのほほえみに、今日も、心をいやされるのです。