「あった!」
突然、ふすまの中を整理していた栗栖さんが、声をあげました。
「え?」
探していた本でも見つかったのかと思って、わたしは背中ごしに、
「何が?」
「ほら、これ」
差し出した栗栖さんの手には、なくしたわたしの腕時計がありました。
あっとわたしは向きなおりました。
「時計!」
「そうだよ」
「わあ……」
受け取りました。たしかに長年使っていたトランス・コンチネンツです。発見者は得意満面な表情です。わたしも再会の喜びで自然と笑顔になりました。
「うれしい。どこにあったの?」
「ここ」
指されたのは、ふすまの裏の桟でした。
「ここ?」
「そう」
2人でのぞきこみました。
「……」
あれだけ家の中を探して。実家まで探しに行って。ふたを開けてみれば、腕時計は、ふだん置いていた定位置(押入れの枕棚、缶の上)から目と鼻の先の場所にありました。
おそらくなにかのひょうしに落ちて、ふすまの桟にひっかかったのでしょう。逆に下まで落ち切っていたら、すぐ気付いたのでしょうけれども。
「でも良かった、無事で」
時計は、何ヶ月も知らずにふすまを開け閉めしていたわりには、傷もなくきれいでした。秒針の赤い飛行機もちゃんと回っています。
「ありがとう」
お礼を言うと、栗栖さんは得意げに胸をはりました。
「良かったな」
「うん」
「もうなくすなよ」
「うん」
そうして見つかった腕時計は、またふすまの枕棚へ戻されました。
いえ、ほんの少しだけ、移動しました。
缶の“上”から、缶の“奥”に。
缶がガードしているので、これでもう大丈夫。落ちる心配はありません。
たぶん。

地震、津波、原発事故と、立て続けに起こった災害に、言葉もありません。なんということが起こってしまったのでしょう……。現実とはとても思えないですが、目を覚ませばまた昨日の続き。ああこれは夢ではないんだと、毎日辛い朝を迎えています。
この災害が収束したとしても、おそらくこれで終わりではないでしょう。
私の住む地域でも、大きな地震がありました。宮城の地震とは関係がないそうです。
わざわざ引越して来てもらった栗栖さんには、本当に申し訳なく思っています。最初は違う土地でのストレスと、慣れない仕事。仕事が安定してきたかなと思ったら、妻の病気。治ったかなと思ったら災害。
これからどうなるのか、まさに一寸先は闇のような状態で。
風におびえる子供のような気持ちです。
それでも、今日生きている。家族がいる。
わたしたちは光のある方向に向かって、手を伸ばしていかなければいけないのでしょう。1歩ずつでいいから。
本当に大切なものは何か、もういちど見直しつつ。
春めいてきたなと思ったら、冬に戻ったような冷たい雨が降ったりして、まさに三寒四温の3月です。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
私のほうは、ブログを更新しなきゃと思いつつ、パソコンが開けなかったこの冬でした。
こたつは温かくていいのですが、座る体勢が体に良くない(足の付け根を圧迫してはいけない)ので、長時間同じ姿勢で書き続けられないんですねー。なのでテーブル+椅子もあまりよろしくない。
うつぶせなら足にはいいんでしょうが、肩がこるし、なにより書きづらい(笑)
難しいところです。
まあそれでも、栗栖さんが「更新止まってるね。たまには書いたら」とチェックを入れてきたので、ぼちぼち書き始めることにしました。
記憶をさかのぼって、12月のことを……ああ覚えてません (^^;;;
とりあえずUPして、1ヶ月ほどしたら、それがあった頃のカレンダーに移したいと思います。
よろしくお願いします
さくら

もう飛行機を見ても、悲しくはない。
あの時代は終わったのだ。
失った命、得た命。それは神様しかご存知なくて。
針は動いているのだろうか。どこか知り及ばぬところで。
電池ではなく、光によって動くもの。
新しく時を刻む。
腕時計が行方不明です。
どこかに置いた、という記憶はあります。でも、どこか思い出せない。
うちか、実家か。掃除にはまっている時期だったので、思いもよらない場所にぽんと置いて、そのまま忘れてしまった可能性があります。押入れの片隅とか、引き出しの中とか。
何度も調べました。が、ひと月たっても出てきません。
気に入っている時計でした。
一見なんの変哲もないシルバーの腕時計。よく見ると白い文字盤には地球儀が、秒針は透明な円盤に小さく赤い飛行機がプリント。飛行機が地球を一周しているみたいで楽しいデザインは、仕事にも普段にも使えて便利でした。
ベルトの色によって、雰囲気ががらりと変わるのも魅力でした。
栗栖さんとの遠距離恋愛中は、時間を見るたびにせつなくなったものです。
埋めたドングリを捜すリスのようにうろうろしている私に、
「そのうち大掃除でもしたら、ひょっこり出てくるんじゃないのか」
と栗栖さんは言いますが、どうでしょう。出てこないような気もします。
買いなおそうと思ったら、ブランドがなくなっていました。TRANS CONTINENTS(トランス・コンチネンツ)。今年初めに営業休止。半年遅かった……。
本当に、どこに行ってしまったんでしょう、あの腕時計。
困ったな、困ったな。
去年の暮れ、バラが、葉を落としました。
ただ単純に、冬になったからだろう、と思っていました。
ところが、春になっても、バラは葉をつけませんでした。
なぜ?
原因が思いつきません。寒さで立ち枯れた? 病気になった?
しかし、その頃には、わたしはバラどころではなくなっていました。
年明け早々からガンが発覚し、それまでの平穏な生活から、いきなり非日常の渦中に放りこまれていたのです。
自分のことでいっぱいいっぱいでした。
春はあっというまに過ぎました。梅雨になりました。
わたしは抗ガン剤治療を始めていました。バラのことは気になっていましたが、それより、治療による自分の体調のほうが大事でした。
土をうるおす雨が続いても、バラは葉をつけようとしませんでした。
治療は苦しいものでしたが、小休止といえる週があり、そういう時は普通の生活ができるのが助かりました。髪を刈ってしまったので、帽子だけは家の中でも外でもかぶっていました。
初夏。裏庭は、成長する草花で緑が濃くなっていました。
その中でバラだけが、去年の暮れと変わらぬ姿でした。むきだしの幹に、棘をいからせて、冬がそこだけ残っているかのようでした。
わたしはO・ヘンリーの『最後の一葉』という短編を思い出しました。
病気の少女、落ちてゆく葉。自分の命と木の葉がこぼれ落ちていくのを、ベッドの少女はただ見つめている――。
バラは、わたし自身なのだろうか、と思いました。
もはや枯れるだけなのか。
いや考えすぎだ。
だってわたしは治るのだから。
もしかしたら――弱っているときは、突拍子もない考えが浮かびます――
バラは、病気のわたしに、エネルギーを与えてくれていたのかもしれない。
だからわたしの病気は良くなり、バラは枯れたのだ。
バラはわたしの身代わりとなって、力尽きた――。
そんなありえないこと。ファンタジックすぎて、自分でも笑ってしまいました。
もちろん、ただの寿命だったのでしょう。
薬の効果があって、一時高くなっていた腫瘍の数値は、しだいに下がっていきました。
夏が来ました。例年にない暑さで、ニュースで何度も記録が更新されました。
抗がん剤の治療は、予定の7月には終わりませんでした。わたしの体調がなかなか順調に戻らないため、8月に延びました。(結局9月までずれこみました)
その日も、治療予定だったのが、延期になりました。
わたしはがっかりしました。
でも、あと1回。それで終わる。
まだ明るいうちに帰宅して、わたしは何気なく窓の外を見ました。――そして、あっと声をあげました。
裏庭のバラの、枝の先に、小さな赤い若葉が出ていました。
もう大丈夫だ、と思いました。
回復したのだ。
わたしも、バラも。
赤子の手のようなそれは、蝉の声がまだひびく青空に、いくつも広がっていました。

退院後、初めての検診。
「その後、どうですか?」
「おかげさまで、だいぶ食べられるようになりました」
「すぐ回復しますね。それでは、手術について詳しく……」
医師は、手術の結果を報告しました。
問題の箇所は予定通り全摘。リンパ節も取って、散らばっているはずの癌を探した。
けれど――
「癌細胞は、ありませんでした」
「え?」
「珍しいケースです」
「……」
驚きに、わたしは言葉が出ませんでした。
レベルⅢかもと言われていた癌は、Ⅰbまで下がっていました。
一番軽いⅠaではなくbだったのは、前の病院から資料として送られていた細胞が、再発性のものだったからだそうです。
そこで、と医師は言いました。
「念のため、化学療法をしておきましょう」
1回目は様子を見るために、入院をしました。アレルギー反応がなかったので、2回目以降は日帰りで治療をすることになりました。
――なぜ癌細胞が無かったのかは、いまだによく分かりません。
万歩計を買って歩いたので、体の抵抗力が増したのか。
身辺整理でスッキリして、なにか体内で不思議な作用があったのか。
祈願が効いたのか。
そもそも癌が初期の初期だったのか。
癌になったなら終わりだ、いっそ早く死ぬと開き直っていたわたしに、神様が「もう少し生きてみなさい」と伝えたように思いました――。
桜が咲き、春の訪れとともに、家族の顔もしだいに明るくなっていきました。
「万が一、体にガン細胞が残っていても、これでなくなるね」
抗がん剤の副作用は、吐き気と脱毛とでなんとも強烈でしたが、最後のハードルだと思って我慢することにしました。(あとリンパ浮腫という、むくみもありますが、これは一生、うまく折り合いをつけていくしかないようです)
髪が抜け始めたとき、栗栖さんに、バリカンで剃り上げてもらいました。
「ドングリみたいでかわいいぞ」
「本当?」
「ほら」
「あ、本当」
鏡の中で見返している自分は、初めて見る顔でした。意外に悪くない、と思いました。
丸坊主になった頭に、春の空気は寒く、わたしはくしゃみをしました。ちょっぴり涙がうかびましたが、こぼれませんでした。
裏庭ではバラが、まだ葉のない枝を、風にゆらしていました。
術後は、胃が食事をうけつけず、眠れない毎日を過ごしました。
そんなわたしを心配し、同じ入院している人たちが、なにかと声をかけてくれました。
さまざまな人がいました。
放射線治療と化学療法で長いこと入院している老婦人。3人の子供がいて、退院したら数日後に卒業式に出席しなきゃというお母さん。同室のおしゃべりなおばあちゃんは、皆からちょっと煙たがられていましたが、巧みにあいづちを打つご主人がお見舞いに来たときは、かわいいおばあちゃんになっていました。
窓の外は曇りがちで、よく雨が降っていましたが、病院の中は快適でした。わたしはリハビリもかねて、廊下をよく歩きました。
ある夜、廊下を歩いていたときのことを覚えています。
年配の男性がうつむいて椅子に座っていて――泣いていました。そばでは看護婦さんがよりそっていました。静かでした。
数分後にわたしが戻ると、2人の姿はありませんでした。
食べては吐く日が続きました。体重はあっという間に落ち、体の感覚がおかしくなってきました。
このままだと点滴に戻るのかな、と考えました。
死にたくない、と思いました。強く、そのとき。
長く続いた雨が、やっと止んだ朝。廊下を歩いていたわたしは、窓の景色に足を止めました。
濡れて光る道路の網を、豆粒のような車が次々と走っていました。まだ眠っている建物たち。立ち上る蒸気で、遠くはかすんでいました。そのもやの中を鉄塔がポツ、ポツと等間隔に浮かんでいました。久しぶりの太陽のまぶしさに、わたしは目を細めました。
なんとか吐かずに3口ほど食べた、翌日。
夢を見ました。
見知らぬ看護婦が、ベッドで寝ているわたしに点滴をしていました。わたしが頭を動かして挨拶すると、看護婦もおじぎを返しました。
目がさめて、良くなる、と思いました。
その日、退院しました。
実家で10日ほど療養してから、家に移りました。
ほとんどを寝て過ごしました。
水仙も梅もわたしの知らないところで咲いて散っていき、季節はしだいに春へと向かい始めていました。
死を身近に感じると、むしろ腹がすわります。
2度目の手術までの間に、わたしは色々なことをしました。
身辺整理。
親しい友人への連絡。(愕然とされました。そりゃそうです)
万歩計を購入して体力作り。(手術対策)
病気回復祈願。(たまたま偶然)
身辺整理は、保険や葬式での連絡先や、銀行口座のリストなど、残された家族が困らないように書き出しました。
家族への手紙も書きました。感謝の思いをつづりました。わだかまりのある人には、許しの言葉を。
書き終わった後は非常にスッキリして、それからは泣くことはなくなりました。
わたしよりも、周りのほうが参ってきていました。
実家の母は毎日のように電話してき、心配で夜眠れないと訴え、「がんばろうね」とまた涙声でくり返しました。そのたびわたしは「しっかりしてよ」と激をとばし、母を怒らせるのでした。
夫の栗栖さんも、陰でこっそり涙をふいていました。
2月下旬、入院。
こんどは開腹手術で、予定より1時間のびました。
廊下を医師や看護婦が通るたび、悪い知らせかと、家族は生きた心地がしなかったそうです。


