(098)

二〇〇四年秋、新潟中越地方を強い地震が襲った。

 

アランドリーの新潟工場に負傷者は出なかっただろうか、不良返品の在庫の山は崩れ落ちなかっただろうか。店町は案じた。

 

宗像は生まれ故郷の復興のために何らかの活動をすることだろう。宗像は多額の義援金を出すことができる。店町には真似したくともできない行為である。

 

彼我の差はあまりに大きい。

 

本当に困っている人というのは、そのお金にまつわるエピソードなど気にすることなく支援をありがたく受け取るのである。その行いに対して感謝するのである。店町のように復興を強く願う気持ちだけでは足りないのである。

 

店町が記録を貸金庫に預けた帰りに乗った寝台急行きたぐに号は、震災の日からしばらく運休したままになっていた。

 

店町の脳裏に、新潟県知事から感謝状を受け取る宗像の姿が浮かんだ。

 

自分が将来成功して権力と金を手にしたとき、宗像と同じ失敗をしてしまわないだろうかというささやかな不安が店町を襲った。人を押しのけることを好まず、この先もずっと自然体でありたいと店町は願った。店町は、社会ルールに忠実な白鳥の姿をもう一度見たいと思った。三月十五日だった。瓢湖の白鳥たちが一斉に北に帰っていく時期である。

 

今ならまだ間に合う。

 

店町は車を走らせた。

 

記録を預けたあの日から、三年半以上が経過している。感謝の気持ちとともに存在する裏切りに対する復讐心が、その時間の中でどのように変化しているのだろうか。白鳥の姿を見届けたあと、自分はどのように行動するのだろうか。

 

ルームミラーに差し込む西日が店町の顔を赤く染めた。このまま走れば、日付が変わるまでに瓢湖に到着できる。

宿は、まだ決めていない。

(了)

 


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(097)

店町は駅のベンチに静かに腰を下ろした。雨が降り続くホームを快速電車が少し速度を落として通り過ぎていった。

店町はレジ横の顕微鏡を見た瞬間から言い知れぬ寂しさを感じていた。

 

佐藤は、できることなら研究の世界に戻りたいと考えている。今でも研究の道をあきらめ切れないでいる。レジ横に飾られた顕微鏡がその気持ちを物語っていた。佐藤は自分が起こした事件のことを悔いている。店町は「もしもなんてこの世の中には存在しないと思います」と自分が言ったとき、佐藤がショーケースの一点を見つめたまま黙ってしまった佐藤の気持ちを思って、しばらく動けなくなった。店町の前をまた電車が通り過ぎていった。

 

四年の歳月は佐藤に反省の時間を与えたが、その対価として限られた許ししか与えなかった。佐藤はその間、社会的制裁を受けると同時に自ら自分に対して制裁を加え続けていた。真面目さからくる罪の意識がそうさせている。佐藤はこの先も自分を許すことはきっとないだろう。そのことが店町の心に痛かった。

 

店町は再び公平な制裁というものについて思いを巡らせた。いくつもの答えが浮かんでは消え、また別の答えが現れては消え、店町を混乱させた。はっきりとした答えなど見つからなかった。

 

被害者が加害者に対して公平な制裁を与えることなどあり得るのだろうか。いったい何をもって何に対して公平であると言えるのだろうか。制裁を与える過程で必ず心が邪魔をする。感情的になれば過剰な制裁を与え、感傷的になれば本来与えられるべき制裁を与えることができなくなってしまう。

 

今回のセクハラ事件で、店町は軽はずみな行動には出なかった。過剰な制裁を与えずに済んだ反面タイミングを逃してしまった。本来許されるべきでない行為を自然に許してしまう心が、宗像に対する忠誠心という形で知らず知らずのうちに店町の中に根を下ろしていた。

 

法の定めるところに判断をゆだねればいい。確かに表向きの処理はそれで済むかも知れない。しかしそれは人の心を軽視した解決としかなり得ない。被害者が本当に望むもの、それは外部からの制裁ではなく、加害者たる本人が自らを責め苦しむ自己制裁、つまり反省という名の制裁ではあるまいか。

店町はそう考えるようになっていた。

 

時間の経過が店町の呪縛を軽くした。時間が記憶を薄れさせたとともに、過去の出来事を冷静な目で見つめることができるようになったのである。

 

あの日宗像が発した言葉は店町の理解の範囲を超えていた。驚きの感情は、わずかの間をおいて怒りの感情へと変化した。裏切りに対する怒りだった。その怒りが悲しみに変わるのにもほとんど時間を要しなかった。尊敬していた人物に裏切られたという深い悲しみだった。怒りが直接悲しみに変化したのではなく、怒りが落ち着いていく過程の中で、店町は悲しみを人間社会のはかなさとして理解したのだった。一時的な感情的感覚は、時間の経過とともに別の思いへと変化した。理解はおよそあとからやってきた。その過程には一種の苦悩が伴った。

 

理解のあとにやってきたのは、苦悩を克服したという爽快感だった。しかしその理解は、また新たな苦悩を店町にもたらした。理解してしまった、理解できてしまったという苦悩だった。過度の理解は罪悪なのだろうか。

 

表面上では、あんなやつのことと否定していたが、それは店町にとって強がりでしかなかった。かつて尊敬していた人間に対する非難の叫びが自分を締め付け責めるのである。これを悲しみ以外の何と呼べるだろうか。

 

やがてその悲しみは、もうひとつ形を変えて店町の中にとどまった。復讐心である。一時的な怒りを抑えることはそれほど難しいことではなかった。しかしこの復讐心は店町を疲れさせ、そしてときに力を与えた。

 

店町は誰かに共感を求め、慰めを求め続けている。

 

表面上の共感や慰めでは意味がない。かといって、いまさら宗像が非を認めて反省するとも思えない。反省してほしいといくら願ったとしても、店町程度の影響力では宗像の心が動くはずがない。

 

店町は米光会長に手紙を書こうと何度も試みた。しかし書き上げることはできなかった。宗像の名前で決算報告の手紙を書いていたときのように筆はすらすらとは動かなかった。宗像を取り巻く環境のすべてが霞んで見える店町にとって、返ってくる答えを待つことがひどく恐ろしかったのである。答えなど知らないほうが幸せかも知れない。尊敬する人物に裏切られた無防備な心の傷はそれほど深かった。

 

影響力の強い人間を動かすには、それ以上の影響力を持って挑むしかすべはない。そのことに気が付いたとき、店町は待つことにした。時期が来るのを待つことにした。

 

店町は信じることをあきらめない。それが愛する人間に対してならなおさらである。人を愛するということは信じるということである。たとえその結果、再び裏切られ、悩み苦しむことになったとしても、店町は信じることをあきらめない。それが愛するということだからである。

 

店町はそれまで宗像に対して持っていた感謝の気持までを否定してしまうことをやめにした。努力してそう心掛けるのではなく、そのほうが自分にとって自然だということに気付いたからである。それまで怒りや悲しみの影に隠れていた感謝の気持ちが、数年の年月を経て顔をのぞかせたのだった。

 

この事件の周辺で人々の発言や行動を狂わせたのは、優越感に対する憧れ、一度手にした優越感を維持したいという人間の欲望である。

 

ときに権力は優越感そのものとなり、金も優越感そのものとなる。美しい女性は他に変えがたい優越感を男にもたらす。

 

それらを手にするため人は努力を惜しまず、人を蹴落とすことも辞さない。優越感への憧れはときに大きな力を与えてくれる。しかし手段を誤れば人生を誤ることになる。

 

優越感を手にしたとき人は幸せを感じる。それ相応の幸せを手にするためには、それ相応の努力と忍耐が必要である。宗像泰造という男はその両方を持ち合わせていたからこそ今の立場までたどり着けたはずである。

 

しかし調子が良くなると、彼は楽をしようとした。権力とお金を利用して、努力を怠り時間を短縮しようとした。自分で決めていたルールを自ら破ってしまったのである。企業家の素養として最も必要だと認識していたはずの自制心を忘れてしまったのである。

 

野生動物は社会ルールに誠実である。ルールを破ったものに対する制裁も平等である。群れを押しのけて進もうとする白鳥は、周囲からくちばしでつつかれ、やがて群れの中から孤立する。横柄な態度は平等に制裁を受ける。

 

しかし人間社会は不平等である。それは心という人間特有の、人間が生まれながらにして備えた本能の上に位置する精神作用が邪魔をするからである。

 

店町の社会人としての第一歩は、君だけは特別扱いするよ、というメッセージとともに心は宗像というひとりの男にゆだねられ、握手という手段によって、それは確固たるものとなっていった。

 

特別扱いという待遇を自らの力で覆すことができなかったとしたならば、その立場に流され溺れ、そしてもはや後戻りできなくなっていただろう。緩やかでしっかりとした本流にいたはずが、いつの間にか流れの速い不安定な支流に入ってしまう。やがてたどり着く海の様子は明らかに違う。支流に入りかけたときに気付かなければ、もはや本流に戻ることはできない。その機会はおそらく一度きりである。

 

宗像のことを信じ続けていた総務部長は、店町の口から真実を知らされたとき、宗像の裏切りに対して涙を流した。しばらく姿を消して苦しんでいた。しかし今だその立場に居座り続けている。直接的被害者でなかったために飛び出すことができなかったのである。

 

彼には部下を守るべき立場と、上からの命令に背けない立場ゆえの苦しみがあったに違いない。その心理も今の店町には理解できる。そうせざるを得なかった気持ちも理解できる。彼が悪いわけではない。その彼の名誉のためにも、店町は被害者たる自分が戦い続けなければならないと固く心に決めた。

 

店町が転職して二年ほど経ったある日、アランドリーと栄陽電機との間で続いていた特許訴訟問題の一審判決の記事が新聞紙面をにぎわせた。その判決は、アランドリーの製品が栄陽電機の持つ特許を侵害すると認定し、賠償金二十億円の支払いと、製品の製造販売の差し止めを命じていた。

 

さらに裁判長は、アランドリーの訴訟態度について、他社の権利を尊重し、信義誠実な取引を心掛けるという法令順守の観点の欠如が甚だしいと批判していた。

 

そのニュースを知った店町は、なんとも表現のしようのない喜びを覚えた。そして自分の中に未だ消ええぬ復讐心が宿っていることを知った。

 

アランドリーのホームページには、その一審判決は到底納得できるものではなく、即刻上訴する旨書き記されていた。問い合わせ担当窓口は総務部長となっていた。

 

宗像は最後まで自分の意志を貫くつもりなのだろう。店町は離れた場所からその結末を見守ることにした。

 


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(096)

佐藤のことを思い出した際に気付いたことだったが、店町はかつて恨んだ彼の行為を今は許していた。それだけでなく、佐藤に対して感謝の思いまでも芽生えはじめていた。佐藤との出会いがなければ宗像や刈谷との出会いはなかった。怒りや恨み、そして復讐心。それらにブレーキを掛けているのは、間違いなくその感謝の気持ちだった。

 

しばらくして店町は佐藤に会いに行った。彼は和歌山で小学校に隣接した小さな文房具店を経営していた。大きなランドセルを背負った学校帰りの児童たちが店町の側を歩いていた。

 

『佐藤文具店』の看板が掲げられたその店先には、回転式の判子スタンドが三台置かれていて、その横の台には様々なサイズのファイルが山積みされていた。スライド式のドアを開けて店町が中に入ると、来客を知らせるチャイムが鳴った。

 

奥から人が出てきた。佐藤正照である。店町の記憶にある姿よりも少し痩せていた。佐藤は店町の顔を一目見てすぐに気付いたようで、少し気まずそうな表情で「いらっしゃいませ」と小さく言った。

 

「お久しぶりです」

 

店町のこの言葉には、様々な思いが込められていた。学生実習で指導を受けていた頃から事件発生の頃、そしてお互い会うことなく過ごしたこの四年間。お互いの頭の中には様々な思いが渦巻いた。

 

店町は佐藤に案内されて奥のスペースの丸椅子に腰を下ろした。店の中は整っていた。佐藤の几帳面な性格は健在のようである。

 

「お店はおひとりで……」

 

「ええ、アルバイトがひとりいますが、今日は休みなんです」

 

佐藤は遠慮がちな話し方だった。かつて自分が起こした事件が店町の人生をどのように変化させてしまったかを気にしている様子が伺えた。少し不自然に作ったその表情は、目の脇の小皺が四年前より深くなっていた。

 

佐藤は電気ポットの湯を注いでインスタントコーヒーを入れた。電気ポットを無表情に眺める店町の視線に気付いて佐藤はこう言った。

 

「大丈夫。アジ化ナトリウムなんて入ってませんから」

 

店町はこの冗談に笑うことができなかった。

 

しばらくの沈黙の後、佐藤がテーブルの上にカップを置いて店町の前に座った。

 

「店町さん。四年前、私はとても悪いことをしてしまいました。それからずっと反省の毎日で今日まで過ごしてきました。その間にも何人かが私の様子を見に来てくれました。でも、今日ほどうれしいことはありません。私をとても慕ってくれていた店町さんが会いに来てくれたのですから。いつか皆さんに直接謝らないといけないと考えていました。多くの人たちの人生に悪い影響を与えてしまったわけですから。店町さんがどのような思いで来てくださったのかはまだわかりませんが、私はあなたの顔が見れてとてもうれしいです」

 

そう語る佐藤は目にはうっすらと涙を浮かべていた。

 

「確かにあの事件は、反社会的行為だったかも知れませんが、私はあの事件が残したものは悪い影響だけではなかったと思っています。少なくとも私に対しては悪い影響だけではありませんでした。あの事件以降、私は多くのことを学びました。あの事件がなかったとしたら、私の人生は違うものだったと思います。でも、その違った人生が本当に自分にとって良いものだったかを想像すると、そうとは言い切れない何かがあると思えるのです」

 

佐藤は店町のほうをじっと見つめて静かに聞いている。はじめ緊張気味だった表情も次第にやわらかくなっていた。

 

「失礼を承知で伺いたいと思いますが、実際のところ、あの事件の意味は何だったのですか。佐藤先生のことですから、何か深い意味の込められた行動だったのだと私はあの日からずっと感じているのです」

 

「先生だなんて呼び方、もうよしてください。私は犯罪者なのですから。……私は、間違ったことをしました。周りの人たちにとても大きな迷惑をかけたわけですから。確かに私の行動には、私なりの意味がありました。あの行動でしか成し得ない意味もその中にありました。ただ、その行為は社会的には許されない行為だったのです」

 

佐藤はコーヒーを一口飲んで話を続けた。

 

「私は、アメリカのバイオベンチャー企業で理想的な研究システムを目にして日本に帰ってきました。アメリカと比べて日本の研究分野はとても古臭いシステムで動いていましたから、私は日本の将来に危機感を抱くようになりました。その思いを周りの先生たちにも訴えかけ、働きかけもしました。でも、誰も動かないのです。誰も私の話を聞こうとしないのです。それどころか、旧態を大切にする若手たちがどんどん昇進していくではないですか。権力志向が強く、どこか歪な世界です。店町さんも気付いていましたよね、きっと。そんな中、全国で劇物毒物事件が多発しました。君が座っていたパソコンのすぐ横にアジ化ナトリウムのビンが置かれていたのですよ。あれだけ世間を騒がせた物質がですよ。青酸カリだって、鍵の壊れた棚の中に無防備に置かれていたのですよ。私は、学部、大学を挙げて管理の見なおしを図るべきだと教授会に提案しました。するとどうですか。現状でも問題が起こってないのだから、今のままでいいでしょう、と平気な顔で答えるじゃないですか。私はこのときほど危機感を覚えたことはありません。大学内のずさんな管理体制を世に示して訴え掛けるしか方法はないと考えました。その結果があれです。その後、全国の大学や研究機関で管理体制の見なおしがなされたと聞いています。でも私は間違っていた。間違ったことをした……」

 

「あの事件で佐藤さんが失われたものと相応の意味があったと今でもお考えですか」

 

店町は率直な質問を投げ掛けた。

 

佐藤はしばらく考えていた。

 

「意味はあっただろうけど、やり方を私は間違っていたんだろうな。タイミングを間違ったんだと思う。上まで上り詰めてから、文部科学省に自分の声が届く立場になってから、別の方法で行動を起こすべきだったのかも知れない。でも、不器用でありながら口うるさい私には教授まで上り詰めていくまでの道も絶たれていたに等しかった。だから、何が正しい答えなのかは、正直なところ今もわからないのです」

 

今の店町には、佐藤があの事件を起こして何を訴えようとしていたのかが理解できる。かつて佐藤は、店町に対して情熱と冷静さについての話をした。その二つのバランスを崩した結果があの事件だったのだと理解できた。

 

特急白鳥号で福井駅まで宗像を追いかけた店町の行動が会社と社長を思っての正義感あふれる情熱によるものであったとするならば、朝礼記録文書を手に軽はずみな行動に出なかったことが、平常心と冷静な判断によるものだったと言えるかも知れない。そのとき佳音が「もういいよ」と止めてくれていなかったとしたら、店町は間違いなく行動に出ていたはずである。平常心と冷静な判断は周りの手にゆだねられていた。運命を左右するブレーキは、店町の外に存在していた。

 

「それと……」

 

佐藤は言葉を詰まらせながら続けた。

 

「あのころ、私が望んでいた国立大学の法人化が今実現しようとしている。それまで強く反対していた文部科学省までもが法人化を後押ししはじめている。私がかつて願っていた姿に、確実に変わっていこうとしている。だから、私は気付いたんだよ。私がいなくともその動きは止まらない。たったひとりで大きなものを動かすことは所詮無理なことだったんだよ。すべてはタイミングなんだよ、私が何もしなくとも、時期がくれば、なるべき姿に変わっていくんだよ」

 

しばらく佐藤は黙って、そして、

 

「私の願いは届かなかった。けれども思いは通じていた。そう思うんですよ」と静かに言った。

 

沈黙が続いたあと佐藤は、「もしも、私が……」と言って言葉を詰まらせた。

 

その様子を見て店町は「もしもなんてこの世の中には存在しないと思います。それを考えるのはもうよしましょう」と言った。

 

店町のその言葉を聞いて、佐藤はレジ横のショーケースの一点を見つめたまま黙ってしまった。

 

ショーケースの中には、小学生向けの顕微鏡の横に、数十万円する生物顕微鏡が飾られていた。店町はA4のファイルを一冊手に取り、レジで代金を支払って佐藤の店を出た。

 


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(095)

転職して半年ほど過ぎたある日、店町は出張先で懐かしい男の姿を見つけた。颯爽と歩く姿はひと目で刈谷だとわかった。相変らず精悍な顔立ちをしている。

 

「ちょうど半年ほど前だったかな。宗像社長から僕の携帯に電話があってね、店町君が会社を辞めることになったから、戻ってこないかと」

 

「それ、日付でいうといつですか」

 

店町は刈谷の記憶力のよさに期待して聞いた。

 

「確か名古屋の展示会に参加していたときだったから、八月二十四日だったな」

 

八月二十四日というと、店町が社長室に直接乗り込んだ二日後である。自分のメッセージが宗像にまったく伝わっていなかったことを知り、店町は眉間に皺を寄せた。

 

刈谷は話を続けた。

 

「僕は宗像社長の所に戻る気はまったくなかったから、丁重にお断りしたよ。でも、これは何かあったな、と少し気になったから、周りの人間に聞いてみたんだよ。店町、大変だったな。気の毒だったな。でも、これが人間社会、縦社会の現実なんだよ。秘書の立場は大変だということがきみもわかっただろ。きみだけは特別扱するよという立場を与えられて、それでいてバランスよく無理を指示する。店町は入社直後からだからなおさらだよな。よく自分を見失わずに飛び出せたと思うよ」

 

店町は自分が辞めるに至った経緯を自分の口からは話さなかったが、刈谷はすべてを理解しているようだった。

 

「実はな、俺もいろいろとあってね。前にいた会社がアランドリーと取引があってね、そこから宗像社長に引き抜かれたのがはじまりだったんだ。その後も取引関係が続いていたけれど、その内容が少しいびつなものになってしまったんだ。宗像社長は取引を優位に進めるために、ある人物にジャガーを一台プレゼントした。結局は、その受け取った人間は別の事件で逮捕されてしまったんだけど……。やっぱり、どこか違うんだよ。やり方がまともじゃないんだよ。店町君も宗像社長を尊敬していたように、もちろんいい部分もたくさんあると思うよ。全国講演で話す内容を聞いて君も感動しただろ」

 

上司であったころの刈谷は、店町にこれほど心を開いて熱く語りかけたことはなかった。今の様子ならこの男が会社を辞めた本当の理由を聞き出すことができるかも知れない。

 

まるで店町のその気持ちが伝わったかのように刈谷は話を続けた。

 

「実は……、こうなることを薄々感じていたんだ。事件の内容はどうであれ、近いうちに宗像が宗像らしくなくなる日が来るな、と」

 

刈谷は社長ではなく宗像と呼び捨てにした。

 

「俺には止められないな、店町君にならできるかな、と。だから俺はあのとき、きみに託して宗像の元を去った。会社が成長したとき、お金を手にしたとき人は周りが見えなくなる」

 

刈谷は淡々と説明した。

 

宗像と刈谷の間でかつて何があったかはわからない。店町は興味はあったがそれ以上聞かないことにした。

 

「宗像から血判状の話を聞いたことがあるだろ」

 

店町は頷いた。

 

「あの時期からもうすぐ三十年なんだよな。皮肉にも『企業の周期は三十年。歴史は繰り返す』と言っていつも警告していた本人がまたその地雷を踏んでしまうとはね……」

 

刈谷はそう言って、言葉の端に悔しさをにじませた。

 

「ところで店町君。宗像の秘書がどうして男性なのかわかるよね」

 

さっきまでの沈んだ表情とは違って、刈谷の顔は少し明るくなった。

 

「ええ、なんとなくわかったような気がします。女性秘書だと自分をうまくコントロールできなくなってしまうんでしょうね」

 

「そう、危険の排除。企業経営でもっとも大切な部分だ。危機管理をおろそかにすると、企業はいとも簡単にひっくり返ってしまう。特に、セクハラは会社の存続を左右する重大な問題なんだよ。宗像は、自らの過ちによって過去に何度もその危機にさらされた。でも、持ち前のパワーと強引さによって見事にねじ伏せてきた。そのことが逆に悪い自信を芽生えさせていたのかも知れないな。危険を冒しても自分になら立てなおすことができると。でも、セクハラに対する社会の目は昔に比べて相当厳しくなっている。職を失い、家庭崩壊まで追いやられた有力者たちも大勢いる。弱い立場の人間が守られる世の中がようやく訪れたということかも知れないな。店町君の今回の退職が宗像の暴走を止めるきっかけになればいいのだけど。……お金は確かに凄い力を持っていると思うよ。でも、そのやり方も一部の人には通用しない。店町君もそのひとりだろうね。そういう人間は、ある段階で排除されるか、自分から見切りをつけて会社を飛び出していく。ものを言う有能な人間が定着しないで、扱いやすいイエスマンで周辺が固められてしまう典型的なパターンだろうな」

 

刈谷は腕時計を見て鞄から手帳を取り出した。懐かしい革の手帳だった。

 

「店町君は、森信三という人物の名前を聞いたことがあったよね。日本の教育の父と言われている人物。『人は一生の中で出会うべき人に必ず出会わされる。それも一瞬早すぎず遅すぎないときに』というような内容の言葉を残した人なんだけど。店町君も色々あったにせよ宗像社長との出会いは無駄ではなかったと考えているだろ。宗像という人物に出会うべきだったんだと思える日が、この先きっと来ると思うよ」

 

「ええ、もう既にそのように思うようになってるんです。というか、不思議なんですが、色々なことがあっても、出会いが無駄だったと考えた瞬間はなかったかも知れません。たぶんそれも、宗像社長からの日々の教育があったからこそだと思うんですが。だから私、困ってるんです。これって洗脳なのでしょうか」

 

刈谷は少し考え込む表情で店町を見ていた。

 

「宗像の人を惹き付ける力というのはすごいと思うよ。あの人物に出会った人、話を聞いた人たちは安心感というか、何か不思議な印象を持つと思うよ。なんだろうな、カリスマ性とでも言うのかな」

 

店町は自分が今まで出会ってきた人物の顔を思い浮かべた。その中にひときわ大きな存在感の人物が三名いた。宗像、刈谷、そして放射性物質散布事件の犯人の佐藤正照である。反社会的行為によって店町の人生に影響を与えた佐藤は、その後どのような人生を送っているのだろうか。事件から既に三年以上が経過している。執行猶予期間も過ぎているはずである。

 


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(094)

二〇〇一年九月二十八日。店町の出社最終日、宗像は上海出張に出ていた。店町は下の階から順番に挨拶を済ませ、最後に最上階の扉を開いた。面接を受けに来たときと少し違うメンバーがそのフロアに居る。何名かが店町より先に会社を去っていた。

 

店町は各フロアで手渡された餞別の品を持っていた。

 

「本当にいいの? 送別会しなくて」

 

「ええ、送別会なんていらないです。別に何が変わるわけでもないですから。新しい会社で歓迎会してもらいますから」

 

「店町君のために盛大な送別会をしてあげなさい」総務部長にそう指示したのは宗像だった。それを知った店町は、その申し出をきっぱりと断った。

 

海外事業部のメンバーたちと店町は少し思い出話をした。店町を気遣って周りの皆は宗像の話は口にはしなかった。

やがて店町は皆にお礼を言って座席の下の鞄を手にとった。

 

デスクに視線を落とすと、本社勤務がはじまった当時の内線電話表の印刷がデスクマットに黒く写っていた。

 

店町は自分が使っていた電話機の受話器のコードが少しよじれているのに気が付いた。刈谷室長が会社を去った日も確かそうだった。店町は受話器を一度手に取ったが、そのまま元の位置に置いた。その電話線のよじれは、これから先も続くであろう店町の心の葛藤と実社会に対するささやかな抵抗を表していた。今はまだなおすべきではないような気がして店町は受話器をそのまま置いたのだった。

 

エレベーターの一階のボタンを押す指が少しためらっていた。毎朝、最上階のボタンを素早く押していた頃のことが、ここにきてとても懐かしく思えた。

 

もう二度と乗ることのないエレベーターの扉が開いて、店町はひとり静かに会社を後にした。新大阪駅の時計は、十七時二十分を指していた。

 

店町の転職初日は大雨が降っていた。いやな出来事をきれいに洗い流してくれるかのような雨だった。新しい靴を履き、新しい鞄を手に持って黄色いワイシャツを着て店町は出社した。

 

新転地の雰囲気はとてもよかった。関西で一番大きな総合法律事務所である。女性社員の多いフロアで、変わった経歴を持つ店町に対して偽りのない笑みが向けられていた。秘書という職務に興味を抱いた人たちが店町に色々と聞いてきたが、店町はかつて遭遇した事件のことを誰にも話さなかった。たとえ話したとしても店町が感じている苦悩を同じ目の高さで、同じ痛みとして共感してくれる人はおそらくいないだろうと店町は考えていた。

 

店町は白いワイシャツに袖を通すことができなくなっていた。手帳を持って外出することができなくなっていた。素直さからくる無意識的行動を避けようとする心の抵抗だった。

その一方で、新しい上司と共に外出する際には、上司の鞄を無意識に持とうと手を伸ばした。上司の背中を宗像のそれと錯覚したのである。上司の鞄を持たずに並んで歩くことに罪悪感を覚えたのだった。それは店町にとって抵抗のしようのないごく自然な心の動きに思われた。

 

そのとき店町は、あることに気が付いた。それは、自分は宗像という男をひとりの人間として愛していたのかも知れないという思いだった。

 

愛する人間の手によって、もうひとりの愛する対象が被害を受けた。そのことで店町は、どちらかを捨てなければならなくなった。捨てるべき対象は一見明らかである。しかし店町にとってその選択は極めて困難なものだった。

 

宗像のすべてを否定することは、かつて尊敬し続けた自分をも否定してしまうことになる。宗像を許すということは、もうひとりの愛する人間に対して、理解不能な自分のわがままを強いることになる。店町は佳音と一緒にいることによってその事件の間接的被害者であり続け、自分の心を正しく保つことができている。もしそのセクハラ事件が他の女性に対して起こったものであったとしたら、店町は真実に目をつぶり、宗像の話だけで納得してしまっていたかも知れない。

尊敬する宗像の言葉は店町にとってすべてだった。そこに嘘など存在しない。宗像が話す内容こそが真実そのものだった。宗像から与えられた教えと優越感はそれほどの力を持っていた。

 

人間は一度手にした優越感をたやすく手放すことはできない。権力者を敵にまわして真実を追及することは自分に与えられた優越感を手放すことそのものである。それだけではない。今度は回復できないほどの劣等感を植え付けられてしまうのも確実である。その差はあまりに大きい。傷は時間とともに癒されるが、一度失った立場にはもう二度と戻ることはできない。自分の力で這い上がっていくしか次の機会はありえない。

 

自らの努力によって得た立場ではなく、偉大な人物に守られているからこそ得ることのできた立場、感じることのできた優越感、店町はそこから抜け出せなくなる一歩手前にいた。

 


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