(006)
「佐藤が犯人じゃないか」という噂を耳にしたとき、店町は思わず「嘘だろ」と強い口調で跳ね返した。まさかあり得ないと思った。と同時に、もしそうであった場合を想像して店町の頭の中は白くなった。
佐藤とは、学部時代に店町が実験の指導を受けた遺伝学教室の助手の名前である。大学には優れた研究者はいるが優秀な教育者はいない、と実感していた店町が唯一見習いたいと感じていた教育熱心な人物だった。
佐藤は学生実習のたびに、国立大学の本来あるべき姿、研究者として実験に取組む姿勢などを学生たちに語って聞かせ、日本の将来は君たちの世代にかかっているのだと熱弁していた。
佐藤は京都大学で博士号を取得後、単身アメリカに渡ってバイオベンチャー企業で研究員となった。その後契約期間満了とともに日本に戻り、大阪医科理科大学の遺伝学教室に活躍の場を得て、研究者として先進的なステップを踏んでいた。資金の流れとともに民間-大学の隔たりなく研究が加速度的に進むアメリカの実状を知る佐藤は、今の日本は古いシステムからの脱却が必要であり、自分の考えに共感する若手研究者をひとりでも多く社会に送り出すことが、日本の将来のためになると考えていた。そしてその考えを実行していた。
当時日本では、内閣総理大臣の直属機関として設置された行政改革会議において、いくつかの行政機関を独立行政法人化しようとする動きがあった。しかし、まだその初期の段階では国立大学は法人化の対象とはされていなかった。そのことについて佐藤は、国立大学こそ法人化すべきなのに、どうしてそうならないのか、といった不満を学生に対してこぼしていた。
「世界に通用する研究機関として生き残っていくには、国立大学にも市場原理に基づく競争を導入する必要がある」佐藤は学生に対してことあるごとにそう繰り返した。社会経験のない店町には、実感の湧かない話も多かったが、若手研究者の育成を自らの使命として熱心に語る佐藤の話は退屈しなかった。
佐藤が大阪医科理科大学の助手となってから既に十年以上経過している。同年代の研究者たちが講師、助教授と昇進していく中、真面目さゆえの不器用さによって、彼は出世競争では少し遅れをとっていた。先進的な彼の考えに共感を示す教授たちが周りにいなかったということも災いしていた。
心が通った教育活動の中に自らの研究成果を上げようとする佐藤の姿は、店町の目には研究者としての手本として映っていた。研究室に個別に話を聞きにいくこともあったが、その中でも特に、実験後のレポートを提出しに行った際に聞いた話が店町の記憶に残っていた。
「店町君。研究者というものは、情熱的である前に、冷静でなければならない。わかるかい? 確かに情熱的でなければ革新的な研究は進まないし、新しい発見は生まれない。ただ、冷静でなければ、それは失敗を招く。ときに実験データは嘘をつく。その嘘を見抜けなければ、研究者としては失格ですよ。実験というものは、心の状態を反映するものなんだよ。無理だろうなと思って進めた実験は必ず失敗する。都合のいいデータが出て欲しいと願って実験を進めると、望んだ通りの結果が出たりする。でも、それは正しい結果だとは限らないんだ。実験の各ステージで無意識のうちに都合のいいデータが出るように操作してしまっているのだよ。何度やっても同じ結果が出る。でも、他の人が追試してみると、結果は違う。追試する研究者というのは、興味と疑いの両方の目で実験を行うから、正直な結果を出しやすい。つまり、実験には平常心と冷静な判断力が常に必要なんだよ。研究者は自分の興味のあるものに対して情熱的になりやすい。優秀な研究者になるためには、まず、冷静さを学ぶことですよ」
熱心に語ったそのすぐあとに、佐藤は突然物静かになる。それは、突然物静かになるというよりもむしろ、いつも冷静な佐藤が突然情熱的に語りはじめ、語った後はいつもの冷静な姿に戻る、という風でもあった。
その後、店町が研究室を訪れたとき佐藤はこうも話した。
「この前は、冷静でありなさい、ということを話したけれど、冷静過ぎるとどうなるかわかりますか?」
いつもより更に落ち着いた丁寧な話しぶりだった。手は休めずに書類を整理していた。
「冷静すぎるとタイミングを逃してしまうんですよ。冷静な判断で、ときに情熱的に行動するということが大切なんですよ」
これらの言葉が、その後店町が目指す研究者としての指標のひとつになっていた。
理由が何であるにしろ犯人が本当に佐藤助手だったとしたら、理想として憧れた人間の手によって、自分の研究者としての道を邪魔されたことになる。テーマを切り替えて修士号を取得することも選択肢のひとつにはあったが、店町はそれを望まなかった。修士号の取得だけでは得ることのできない大切な何かを失いつつあることを店町は感じはじめていた。それがいったい何であるのかわからなかったが、心の中に芽生えた違和感としてそれは確実に存在していた。表向きには、自分の研究者としての経歴に汚点を残したくないとの思いが強かった。形式だけの研究をするくらいなら、研究者を辞めたほうがましだとさえ店町は考えていた。