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四十キロメートル遠方に佐渡島を望む新潟の空は晴れていた。

 

日の出時刻に合わせてジョギングを開始する店町(たなまち)の日課は、ここに来ても変わらなかった。夏は五時前に起きて長い距離を走り、日が短い季節には六時過ぎにスタートして短く走る。トライアスロン部を辞めて二年経過した今も、この習慣だけは続けていた。

 

新潟地方の日の出時刻は、店町の住む大阪よりも十五分ほど早い。春分を少し過ぎたこの日、店町は五時半過ぎに宿を出て、海に向けてゆっくりと走りはじめた。朝の冷気が店町の頬に触れる。

 

少し行くと周囲に住宅はなくなり、道の両側には水が張られる前の水田風景が広がった。首の長い数羽の白い鳥が羽を休めている。店町の足音が近づくとその鳥は大きな羽を広げて低く飛び立った。

 

十分ほど走って、ようやく一つ目の信号が見えてきた。車通りが少ない時刻とあって、信号は交互に点滅している。

 

店町は海の香りを感じる方へと迷わずに進んだ。信号の先の道は、広大な砂地の畑を貫くように伸びている。舗装されていない農道がその道から左右に何本か伸びている。店町は、二本目の農道を右に入って、の部分を選んで走った。両脇の畑は、夏になるとスイカ畑とタバコの葉畑に一年ごとに切り替わる。肌寒さの残るこの季節には、まだ何もそこに植えられていなかった。

 

畑を抜けると広い海岸通りに出た。眼前に広がる松林の先は海である。辺りは既に十分明るくなっている。見渡す限り直線が続く海岸通りには、国道402号線の標識が立っていた。

 

店町は道の先に目をやった。オレンジ色のセンターラインの先に、標高四八一メートルの角田山が見えている。山はピラミッド型の姿の裾野を、一方を越後平野になだらかに広げ、もう一方を日本海へ下ろしていた。

 

店町は山を遠く眺めながら走りつづけた。車のタイヤの音が遠くから聞こえる。右手には松の防砂林が続き、その木々の間から海が見えている。松は冬の北風の厳しさを記録するように、南南西の方向に規則正しく傾いて立っていた。同じ眺めが、それでいて飽きない景色がしばらく続いた。

店町の脇をヘッドライトを点灯させたままの車が二台間隔をおいて通り過ぎた。

 

『四ツ郷屋海水浴場』という看板が見えた辺りで店町は走るのをやめて、浜の入り口へと歩いた。

 

小高くなった先になだらかに砂浜が広がっている。白い光に照らされた砂浜は、爽やかな潮風もまだ少し肌寒く、波は静かで穏やかだった。小魚の群れが遠く海面に光って見えている。テトラポットのかなた、朝靄の陰に隠れた佐渡島がうっすらと見えている。店町が想像していたよりも島は近く、それはまるで中国大陸の一部が日本に迫っているかのようである。

 

数年前であれば、その島をトライアスロンの全国大会が開催される憧れの地として眺めたであろうが、今の店町にはその思いはなかった。今はむしろ遥か昔に抱いた夢にさえ感じられた。

 

『民宿のんき』をスタートして三十分が経過していた。

 

シューズに入った砂を取り払おうと、店町は片方の靴を脱いだ。そのとき首に掛けていたタオルを落としそうになって、少しバランスを崩して足を着いた。夜の大気に冷やされた真白な砂が足裏に冷たい。店町はシューズを足元に揃えて、波打ち際へと歩いた。波に洗われて茶色く湿った砂を踏みしめながら、店町は数時間後に迫った入社式のことを思い描いた。そして今日に至るまでのいくつかの出来事を思い返した。

 


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