言葉の破壊力を
久しぶりに食らって
完全にやる気を失った4か月前
それをリカバリーしたのは
子どもを思う母親必死な愛情を
感じたからだった。
私は社会福祉士だけど
認可を受けた事業所で働いていない
時給換算したら?円程度の有償ボランティア
そんな状況でNPO法人の活動をしていた。
配慮が必要な人に対して
私の立場は関係ない
受入をしている以上
不適切な対応で受け入れたこどもを
傷つけるわけにはいかない
それまで利用している人たちは
みんな素直に従う人たちだったので
私が気づいていなかった。
お菓子作りの活動は分かち合いをすることが前提
これだけは障がいがあろうとなかろうと
ゆずれない部分
だけど寝たきりの参加者さんのお菓子を
どうして自分が作らないといけないのか
納得できない利用者さんが
なんにもしていない参加者のために
「ぼくになんのとくがあるの?」といわれ、
たくさん作ったお菓子を一人で持って帰ろうとした。
いろいろ説明したが、どれもこじつけだった。
この出来事で自分の支援レベルの低さを感じたとともに
理屈抜きのもう嫌って気持ちがわいてきた。
私はどんなことも意味があると思って生きてきたけど
自分に損だと思うことはやらなくていいんだなと
自ら選んでしんどい思いをしなくてもい
いんだなと思えた。
息子をベッドの上に転がしたまま、
ほかの子どもたちの受け入れをして
息子のことを否定されて
この活動にいったい何の意味があるの?
受け入れない選択もある!
全面的にストライキ状態に入った。
課題はこの子どもさん自身ではなく
NPO法人に、パートナーとの体制にあった。
2週間ほど時間がたち
私がストライキを起こした利用者さんが利用した。
様子が変わっていた。
母親が本人がほかの場所でつらいことがあり
そのことで傷ついている話を伝えてくれ、
「どうかこの子の心の支えに
なってもらえないでしょうか?」とおっしゃった。
その後の利用者さんが、
自分が作ったものをみんなに分けたり
気を遣う様子が見えた。
母親が本人わかるように説明したんだと思う。
それを理解した利用者さんは
自分の居場所を作ろうとして
自分が作ったお菓子をみんなにふるまっている。
その人を排除しようとした自分が恥ずかしくなった。
居場所づくりって
自分の居心地のいい場所を作ってもらうのではなく
自分の居場所を作れる場所を提供することなのかもしれない
破壊力のある言葉のあとに
新しいものが生まれた。