この記事は孫娘が2歳4ヶ月当時の過去のお話です。
詳しくは、「はじめましてのごあいさつ」をお読み下さい。


その夜は夜中から朝にかけて4回痙攣したが、
朝になり、胸の音も血圧もずいぶん落ち着いたようで、昨日危険と判断され取り止めたMRIにも行くことができた。

孫娘の周りには朝からたくさんの白衣の人達が集まり、普段の検査の時にはなかなか眠らない孫娘に、
「次が詰まってるんですよねぇ」と言っていた脳波の検査技師が、神妙な面持ちでポータブルのレントゲンが終わるのを黙って見守りながら待っている。

点滴が漏れて、むくみでルートを取れる血管がなくなり、首の大静脈から点滴のルートを繋ぐ処置(CV)をする。
そして、主治医に呼ばれて話を聞く。

「今のところ脳症と見られる所見はないが、
この病院には小児神経の常駐医がいないのと、全身の状態が悪すぎるので、
もっと高度医療の受けられる病院に転院する方が良い。
今、2箇所候補があり選定中で、どちらになるかまだ決まってないが、
処置が済み次第救急車で移動する。」
と、いうことらしい。

(この大きな総合病院の中で、今一番天国に近い場所にいるのが孫娘だということに、まだ私はピンと来ていなかった。)


処置と転院の準備と手続きの間に転院先が決まり、元々の持病(ドラベ症候群)の主治医のいる大学病院への転院が決まった。
3人の医師と病院関係者に囲まれ、
「移動中に急変して、もしもの事があっても責任を問わない」
という同意書にサインをし、救急車で40分程高速道路を走り、大学病院へ向かった。

出発の時、ICUで孫娘のために一丸となって頑張ってくれた看護師の皆さんが進路に立って並び、
一昨日の発作の時に、私服のままハイヒールを脱ぎ捨てて奮闘してくれた小児科医と、
発症した時から孫娘を良く知る小児科の看護師長が涙を流しながら、
「また小児科に戻ってくるのを待っているから」と、見えなくなるまで見送ってくれた。
この時私は初めて、孫娘の命の火が消えかけていることを悟った。

大学病院には孫娘の病気の専門の主治医がいる。
今の状況と今後の経過の予測を丁寧に説明してくれた。
「呼吸が落ち着いて、薬を止めたらまた元の孫娘に戻るでしょう」
と言ってもらって安心した。
「戻ってくる」
その言葉を聞いて私の中からつきまとっていた「死」の文字が一気に消滅する。
付き添いはできず、面会は1日1時間のみだが、医者がおろおろしてない分、安心感が増す。

息子にもお嫁にも、転院の電話連絡をするタイミングはなかったが、ラインで連絡しておいたので、午後から休みを取りすぐに大学病院に来た。

ここは完全看護で、午前と午後に30分間だけ面会時間があるという。
どうしてもこの時間に来れない家族は申請することで、消灯までは面会が許された。
この時点では、片道50キロの道のりを毎日通うつもりでいた。

しかし、まだ安定期前のお嫁の体には負担と危険が大きすぎる。
息子達は週4で通い、私は毎日通うために大学病院から近いもう一人の息子の家に一抱えの荷物を持ち、引っ越しすることにした。

病院に併設された家族のための宿泊施設(マクドナルドハウス)があることを入院手続きの時に聞いていたが、
この後両親がずいぶん泊まり込むことになるとは、この時思いもしなかった。

その日は孫娘のことを一切クローズドICUに任せ、
久しぶりに自宅に帰り、ここ何日間か夜中も明るく機械音の騒がしいICUで、痙攣もあってほとんど寝られなかった私は昼まで泥のように眠り込んだ。